先日「継承の文化」の項において、
(引用開始)
では、この流域の両端に位置する二つの「奥」と、「内と外」の項で考察した市村次夫氏のいう「みんなのものとしての外」とは、(「里山」や「縁側」といった「中間領域」を挟んで)どのように繋がるのが理想なのだろうか。景観や都市計画を支えるべき新しい理念について、項を改めて考えてみたい。
(引用終了)
と書いたけれど、今回はこのことを、以前「自立と共生」や「内と外」の項で引用した、鳩山首相の所信表明演説における“新しい公共”の考え方と重ねて考察してみたい。
「継承の文化」の項において、「三世代存在としてのあなた」「至高としてのあなた」への気づきは、日本人が縄文時代から連綿と引き継いできた、流域の両端の「奥」(生としての奥座敷と、魂としての奥山)に対する認識の深化を齎(もたら)すと書いた。
この認識の深化は、他にもいろいろあるだろうが、人々の出会いの場としての「みんなのものとしての外」に対する認識を変える。
どういうことか説明しよう。人々が「三世代存在としてのあなた」「至高としてのあなた」について考えを深めれば深めるほど、その「考え」を検証したり裏打ちしたりする為の人同士の出会いが大切になる筈だ。そうなると、(ネットでの出会いも重要だが)人同士が出会う場所としての「街」の重要性が認識される。そのことで「街」の賑わいが増す。人々の出会いの場としての「みんなのものとしての外」は、両端の「奥」に潜む「継承の文化」への認識が深まれば深まるほど、尊いものとなるのだ。
相場取引に“山、高ければ谷深し、谷、深ければ山高し”という格言があるけれど、流域両端の「奥」が深まれば、流域中央=「みんなのものとしての外」は「山高し」の状態、すなわち「存在意義の高まり」を生むというわけだ。
このことを逆から言えば、「奥山は打ち捨てられ、里山にはショッピング・センターが建ち並び、縁側は壁で遮断され、奥座敷にはTVが鎮座する」という日本社会の典型的な姿は、明治以降我々が「三世代存在としてのあなた」「至高としてのあなた」について考えてこなかったことにその遠因があるということだ。両端の「奥」が忘れられ、それに伴って「街」が廃れてきたのである。
流域両端の「奥」は、過去の記憶と現在とをつなぐ。小布施で云えば、その「奥」は、千曲川であり北信の山々であり、松川であり雁田山であり、高井鴻山であり北斎であり、栗や綿やりんごなどを産する農業であり、酒造りであり庭づくりであり、最近集合するところの若い人たちであり、今そこに暮らす人々の胸の内に存在する想いである。皆さんの流域にも、小布施と同じように、独自の「奥」が存在するはずだ。過去の歴史と現在とを結ぶ「継承の文化」があるはずだ。それが未来への糧となる。
街の活性化は、景観や都市計画を考えるだけでは達成できない。鳩山元首相のいう“新しい公共”の価値観、
(引用開始)
私が目指したいのは、人と人が支え合い、役に立ち合う「新しい公共」の概念です。「新しい公共」とは、人を支えるという役割を、「官」と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという新しい価値観です。
(引用終了)
<10/27/09 東京新聞より>
は、景観や都市計画を考えるだけでは生まれない。“新しい公共”=「みんなのものとしての外」には、それを支える支えるべき新しい「理念」がなければならない。その理念こそ、「三世代存在としてのあなた」「至高としてのあなた」の深化、流域における「奥」の深化に他ならないと思う。
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