先日「内と外 II」の項において、
(引用開始)
ところで、里山と街づくりの三層構造において、「奥」という言葉が、里山流域では一番外側の「奥」山、街づくりでは一番内側の「奥」(私生活)として使われている。流域全体の一番外側と一番内側に、同じ「奥」という言葉が使用されているのは興味深い。流域の両端は、きっと円環面のように、「奥」で繋がっているのだろう。
(引用終了)
と書いたけれど、今回はこの「奥」についてさらに考えてみたい。
流域の一番外側の奥山と、家の一番内側の奥座敷とを繋ぐ円環があるとすれば、それは勿論物理的なものではなく、「奥」という言葉を使う人々の脳の中に存在するはずだ。
広辞苑によると、「奥」という言葉には、単に「外面から遠いところ」「行く末、将来」などの意味の他に、「物事の秘密、深遠で知りにくいところ」や「大切にすること」、すなわち「至高の場所」という意味があるという。「奥義」「奥旨」「奥社」「大奥」などなど。
この「奥」=「至高なるもの」に対する呼びかけ方の一つに、「あなた」という言葉がある。広辞苑によると、「あなた」という二人称は、(最近は敬意の度合いが減じているが)もともと「彼方(あなた)」、すなわち「自分や相手から遠い所」という言葉から転じ、第三者を敬って呼ぶ言葉だという。
「奥」と「彼方(あなた)」には、共に「至高なるもの」への敬いの気持ちが込められている。
これまで「生産と消費論」で述べてきたように、人間の存在は、環境(社会)がなければ積極的な意味を持たない。社会という環境を、「他者」という味気ないことばでではなく、この「あなた」ということばで表現し、日本人にとって「あなた」とは何か、を問う力作が“「あなた」の哲学”村瀬学著(講談社現代新書)である。
著者の村瀬氏は、日本の思想史には、「あなた」についての考察がなく、あるのは「わたし」論や、「他者」論ばかりだったといい、なぜ「あなた」についての考察がなかったのか、ということについて疑問を持ったという。そして、この「あなた」という言葉が、単なる二人称名詞としてだけではなく、いろいろな場面で、親子三代を含む「三世代存在」を表す言葉として、さらには、社会と文化を継承する「至高的存在」を表す言葉として使われてきたことを、いろいろな立場で書かれた文章をみながら論証していく。本の「あとがき」から引用しよう。
(引用開始)
この本はおそらく日本ではじめての「あなた」論である。日本語で書かれた「あなた」についてのたぶん唯一の、充分に考えられた考察である。(中略)
早とちりする人は、私の「あなた」論を、三世代を含む家族を大事にしなさいという古い道徳論のように読む人がいるかもしれない。むろん私の「あなた」論は道徳論ではない。私の論は、人間の存在のしかたを「おひとりさま」としてみたり、「現存在」などという無世代的なイメージで見るのではなく、いかにも「個」として存在するように見えるものでも、同時に「三世代存在」として生きているのだという、あたりまえのことを主張する論なのである。その「三世代」は、ふつうに言えば「親」「子」「孫」の三代でイメージされるところがあり、「幼」「成」「老」の三つの世代と重ねられてイメージされるところがあるものだ。しかし、ここで言う「三世代存在」の「三代」は、「親」「子」「孫」と「幼」「成」「老」をともに含んでいる複合イメージである。それは、でも、「家族」として見られる「親」「子」「孫」や、一人の人間の「発展段階」に見られる「幼年期」「成年期」「老年期」のイメージとは、別のものである。そこでイメージされる「世代」は、あくまで長い年月を経てバトンタッチされる「継承の文化」であり、そういう「文化的な存在」としてイメージされるものである。つまり、「三つ」という「世代」というのは、何千年もの長い文明のなかで注視され、形作られてきた「文明史」的な「継承させるしくみ」を呼ぶ呼び方なのである。そんな広大な「紡ぎの存在」をあらためて「あなた」と呼ぼうとしてきた人たちがいたのである。その「紡ぎのしくみ」「紡ぎの存在」を私はあえて「三世代存在」と呼び、さらにそれを「あなた」として考えてみようとし、さらにはその「あなた」の日常の暮らしのなかに(たとえば歌謡曲のようなもののなかにでも)見出せるのではないかと考えてきたのが、この「あなた」論である。
(引用終了)
<同書234−236ページ>
「あなた」のなかに例の「3の構造」が潜んでいる不思議はとりあえず横において置く。村瀬氏は、日本人が「あなた」と呼びかける先は、目の前の相手だけではなく、親子三代を含む「三世代存在」、さらには日本の社会と文化を継承する「至高的存在」であるという。
(引用開始)
ここまでの章で論じてきたように、私は日本語の「あなた」という言葉のなかには、ちゃんと日常的に使う「二人称としてのあなた」の意味と、何かしら相手に「敬意」を払うときに使う「至高としてのあなた」の意味の、二つの意味をもったしくみがあって、そのしくみはもっと活用されなければならないのではと考えるからである。
(引用終了)
<同書188ページ>
この「至高としてのあなた」は、流域における二箇所の「奥」、すなわち生きている間は「家の一番内側の奥座敷」、死後は魂(たましい)として「流域の一番外側の奥山」に住むというのが、日本人の生み出した縄文時代からの生死観なのだろう。流域の両端は、確かに「奥」で繋がっているのだ。
しかし、村瀬氏が言うように、明治以降我々はこの大切な「至高としてのあなた」についてあまり考えてこなかった。だから「奥」ということばの深遠なる意味についても省みることが無かった。「奥山」も「奥義」も忘れられた。それに伴って「里山」も「縁側」も放棄された。奥山は打ち捨てられ、里山にはショッピング・センターが建ち並び、縁側は壁で遮断され、奥座敷にはTVが鎮座する。それが昨今の日本社会の典型的な姿ではないだろうか。
では、この流域の両端に位置する二つの「奥」と、「内と外」の項で考察した市村次夫氏のいう「みんなのものとしての外」とは、(「里山」や「縁側」といった「中間領域」を挟んで)どのように繋がるのが理想なのだろうか。景観や都市計画を支えるべき新しい理念について、項を改めて考えてみたい。
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