これまで「言葉について」の各項などで、日本語が母音語であることと、それに伴って起こる、日本語的発想における「自他認識」の薄弱性は、「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」(「日本人と身体性」)を生み、それがいい意味では「自然環境を守る力」(「日本語の力」)となるけれど、一方において「自分の属する組織を盲目的に守る力」(「迷惑とお互いさま」)ともなり、悪くすると「組織内の秩序を乱さないように努力する力」(「上座と下座」)にまで墜することを見てきた。
「日本語の力」「少数意見」「民族移動と言語との関係」などで紹介してきた“日本語はなぜ美しいのか”(集英社新書)の著者黒川伊保子氏は、日本語における「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」は、自然や組織ばかりではなく、機械などの無機的環境に対しても働くと述べておられる。同書の「日本の生産技術の質が高い理由」という項より引用しよう。
(引用開始)
融和癖が高じて、日本人は、たとえば工場の機械とも一体化する。
ある日本の精密機器の生産管理者が、「光ファイバーの微細なコネクタを接着するとき、日本人の工員は、なにも言わなくても、有効範囲のど真ん中にくるように接着してくれる。欧米人は、平気で有効範囲ぎりぎりの接着をするので、どうしても現場の耐久性が日本製のほうが良いのです」と話してくれたことがある。
欧米人の工員に注意すると、「有効範囲に入っているのに、注意される筋合いはない」と気にも留めてくれない。「たしかにそうだ、気持ちの問題なのだが、その気持ちを真ん中に集中してくれないか?」と言っても、相手は「言っていることの意味がわからない」と首をすくめるのだそうだ。
逆に日本人の工員に「あなたは、なぜ、真ん中を狙うのか」と尋ねたら、「真ん中が気持ちいいから。これがずれると、気持ち悪い」と答えたのである。日本人なら、この発言に深くうなずかれることだろう。(中略)
日本の工場の質の高さは、枚挙にいとまがない。
あるメーカーでは、日本とベルギーにまったく同じ生産ラインを作って稼動させている。同じシステムに、同じマニュアル。なのに、不良品の発生率がまったく違うので、日本の生産管理のチームを派遣した。報告は次のようなものだったという。
「ベルギーの工場では、生産機械のアラームが鳴ってから、ラインを止める。日本の工場では、アラームが鳴る前に、工員が微かな異常に気づいてラインを止め、トラブルを未然に防いでいる。ベルギーの工場では、当然のようにアラームが鳴っていたが、日本の工場では、創設以来、機械のアラームなど鳴らしたことがない。
現場の『あれ、おかしいな。いつもと違う』という気づきは、機械の音や動きなど一つ一つの属性に着目しても表出しない微細な差を総体イメージとして感じる、第六感の範疇なので、到底マニュアル化できない。ベルギーの工場に日本の工場と同じ質を期待するのは無理である」
境界線を融和し、拡張できる日本人の特性、ここに極まれり、という話である。
(引用終了)
<同書175−177ページ>
これまでこのブログでは、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
という対比について様々な角度から見てきたが、日本人の生産技術の質の高さも、その根本に、環境中心の日本語的発想があるということなのだろう。
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