2008年の「崖の上のポニョ」に続いて、今年の夏、スタジオジブリ製作「借りぐらしのアリエッティ」を観た。監督は米林宏昌氏、1996年にスタジオジブリに入社したアニメーターで、今回初めて抜擢されたという。
東京西郊の洋館と、庭の草木を舞台にした、主人公の表情や躍動感が素晴らしい。物の大小、(大きくて小さな)生きものたち、英国製のドールハウス、小人たちの住む家の中のディテールなども素敵だ。セシル・コルベルさんの主題歌も良い。アリエッティと少年の心の交流、とくに最後の「アリエッティ、君は僕の心臓の一部だ」という少年の台詞が長く記憶に残る。
以前の「崖の上のPonyo」の項で、
(引用開始)
宮崎駿監督は、自然描写と、自然と共生する主人公を描くのが上手い。なかでも、「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」、「もののけ姫」や「耳をすませば」(脚本・絵コンテ・製作プロデューサー担当)など、日本の自然と女の子を主人公とした作品はどれも素晴らしい。
(引用終了)
と書いたけれど、米林宏昌監督も、このジブリの伝統の一端を見事に守り発展させたと思う。今後さらに同氏の監督で、アリエッティとスピラーを主人公にした冒険物語なども見てみたいと思う。
さて、「崖の上のPonyo」の項では、
(引用開始)
先回「公(public)と私(private)」のなかで、日本語的発想には、豊かな自然環境を守る力が育まれていると書いたけれど、その意味で、宮崎氏は日本語的発想に優れた監督である。
(引用終了)
とも書いた。このブログではこれまで、
A Resource Planning(R.P.)−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」
B Process Technology(P.T.)−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」
という対比を見てきたが、「スタジオジブリ」のプロデューサー鈴木敏夫氏が、新聞に面白い記事を書いておられるので紹介しておきたい。
(引用開始)
あるとき、加藤周一さんから直接教えられたことがある。
江戸屋敷には設計図が無い。西洋の人が江戸屋敷を見学すると、その建築構造の複雑さに、これをどうやって設計したのか、大概の人が驚嘆するそうだ。回答は、日本の建物は部分から始める。まず第一に、床柱をどうするのか。つぎに床柱に見合う床板を探す。そして、天井板。その部屋が完成してはじめて、隣の部屋のことを考える。その後、“建て増し”を繰り返し全体が出来上がる。これとは真逆に、西洋ではまず全体を考える。教会がいい例だ。ほぼ例外なく、天空から見ると十字架になっている。で、真正面から見ると左右対称。その後、部分に及び祭壇や懺悔(ざんげ)室の場所や装飾などを考える。
目から鱗が落ちた。長年連れ添った宮崎駿について本能で思っていたことが理屈で理解できた。彼の映画「ハウルの動く城」を思い出して欲しい。「鈴木さん、これ、お城に見える?」。そう言われた日のことを印象深く憶(おぼ)えている。宮崎駿は、まず、大砲を描き始めた。これが、生き物の大きな目に見えた。つぎに、西洋風の小屋とかバルコニーを、さらに大きな口めいたモノを、あげくは舌まで付け加えた。そして、最後に悩んだ。足をどうするのか。足軽の足か、ニワトリか。ぼくは「ニワトリがいい」と答えた。
これが、宮崎駿が西洋で喝采(かっさい)を浴びる原因だ。西洋人には何が何だか訳が分からない、理解不能のデザインなのだ。だから、現地での反応も、豊かなイマジネーションだ、まるでピカソの再来だ、になる。(後略)
(引用終了)
<毎日新聞2/21/10より>
全体の構想(R.P.)よりも細部の積み重ね(P.T.)に力があるというのが日本語的発想の特徴だ。「スタジオジブリ」は、鈴木氏と宮崎氏の「ホームズとワトソン」的運営によって、また保育園設立などの「高度な経営」によって、これまで次々と優れた作品を生み出してきた。今後も、宮崎駿監督とその遺伝子を引き継ぐ若いスタッフ達の活躍に期待したい。
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