前回「高度な経営」の項で、
(引用開始)
「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」の表出形態の奥にあるエッセンスは、環境を中心に据えた身の処し方、つまりは「身体性」そのものであると考えることができる。
(引用終了)
と書いたけれど、日本人の「身体性」について、最近面白い本を読んだので紹介したい。“裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心”中野明著(新潮選書)がそれである。本カバーの紹介文を引用しよう。
(引用開始)
150年前の「混浴図」が現代日本人に奇異に見えるのはなぜか?
「男女が無分別に入り乱れて、互いの裸体を気にしないでいる」。幕末、訪日した欧米人は公衆浴場が混浴なのに驚いた。当時の裸体感がいまと異なっていたのだ。しかし、次第に日本人は裸を人目に晒すことを不道徳と考えるようになり、私的な空間以外では肉体を隠すようになった。その間、日本人の心の中で性的関心がどのように変化していったかを明らかにする。
(引用終了)
日本語に備わった「環境を守る力」は、話し手の意識を、環境と一体化させる傾向がある。自分の身体も自然環境の一部であってみれば、特に近代以前、日本において裸は互いに隠しあう筋合いのものではなかったのだろう。
中野氏によると、明治以降日本人が裸を隠すようになったのは、政府が施行した法律や、ライフスタイルの変化などによるという。
日本語の「環境を守る力」が、「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」として表出することは、これまで「迷惑とお互いさま」の項などでみてきた。
公衆浴場において「男女が無分別に入り乱れて、互いの裸体を気にしないでいる」昔の日本の状況は、「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」の項で、
(引用開始)
本来、ゲマインシャフトは「私(private)」の領域に属し、ゲゼルシャフトは「公(public)」の領域に属す。しかし、日本では二つの違いの意識が希薄である。
(引用終了)
と書いたことと呼応しているに違いない。日本語における「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」と「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」の二つは同根の蔓であり、二つ合わせて日本人の「私(private)」と「公(public)」に対する意識を曖昧にさせるわけだ。
「私(private)と公(public)の意識の曖昧性」はまた、以前「広場の思想と縁側の思想」で紹介した、“「縁側」の思想”ジェフリー・ムーサス著(祥伝社)の次のような分析とも呼応しているだろう。
(引用開始)
町家を改造していく中で、私が最も関心を持ったのは、日本建築における「あいまいな場所」です。例えば、縁側は屋根があるので「外」ではありませんが、壁がないので完全な「内」でもありません。この「あいまいさ」こそが、日本建築における独自の要素、コンセプトであると私は考えています。(同書11ページ)
日本の伝統的な家屋は外と内の境界がはっきりしておらず、外から内、内から外へと段階的に連なっているようです。第二章でお話したように、町家の構造にはとりわけその特徴が顕著で、層(layer)になっていて、外でもなく内でもない中間的なあいまいな場所があります。
このような場所として、日本人にとって最もイメージしやすいのが「縁側」です。縁側は家の外でしょうか?それとも家の内でしょうか?(同書107ページ)
(引用終了)
中野氏は、“裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心”のなかで、
(引用開始)
歴史学者牧原憲夫氏は、昔の家屋について「庶民にとって家の内と外は画然とは分化しておらず、路地は土地の延長でしかなかった」という。そして裸体を取り締まるということは、「家屋と路地が渾然一体だった地域社会から、路上を“公共”の空間として剥離すること」と指摘する。さらに、「道路はもはや住民のものではなく、“私生活”はしだいに家のなかに閉じ込められていく」。これも裸体を極度に隠したひとつの副作用と考えてよい。
(引用終了)
<同書225−226ページ>
と指摘しておられる。日本人の身体性、私(private)と公(public)、家屋の内と外などについて、田舎の温泉にでも浸かりながら、ゆっくり考えることにしようか。
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