先回「リズムと間」の項において、
(引用開始)
カナ一文字が最小の音声認識単位であるところの日本語の歌は、「拍」と「間」によって構成される。それに対して、シラブル(子音から子音への一渡り)が最小の音声認識単位であるところの英語の歌は、シラブルを繋ぐものとしての「ビート(脈動)」や「リズム(律動)」によって構成されるということがわかる。
(引用終了)
と書いたけれど、この英語の「リズム」と日本語の「間」との違いは、ことばの特徴(母音語と子音語)に根ざしているだけに、歌だけに止まらず、絵画や文学、デザイン、彫刻や建築、その他生活文化全般にまで及んでいるように思われる。
このブログではこれまで、「脳と身体」などで、経営的、科学的、社会的観点から、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」
という対比を指摘し、「容器の比喩と擬人の比喩」「言語技術」などで、言語的見地から、
A 主格中心−擬人比喩の多用−主語と述語
B 環境中心−容器比喩の多用−主題と解説
という対比をみてきた。ここで、以上の対比構造に、
A 英語−子音主体−ビートとリズム
B 日本語−母音主体−拍と間
という音楽的視点も付け加えておきたい。
さて先日「対位法のことなど」において、
(引用開始)
この“対位法”は、前回「ハーモニーとは」の項で引用した石井宏氏のいう、「音がお互いに自己を主張しながら、立派に溶け合ったハーモニー」のあり方を、高度に示す西洋音楽の真髄だと思う。
(引用終了)
と書いたけれど、今回は日本の「一拍子の音楽」について、“西洋音楽から見たニッポン”石井宏著(PHP研究所)から引用してみよう。
石井氏はまず、歌舞伎の「天衣粉上野初花(くもにまごううえののはつはな)」などで聴かれる「雪おろし」のモノトーンな太鼓の連打について触れた後、次のように書いておられる。
(引用開始)
同じように歌舞伎には日本人の発明した着目すべき一拍子の音楽がもう一つある。それは幕の開閉に使われる拍子木(ひょうしぎ)の音、あるいは花道を退場するときの「柝(き)」の「つけ打ち」などに見られる。(中略)
この柝による音楽は西洋の打楽器と違って二拍子や三拍子のリズムをもたない(拍ごとにメリハリをつけない)純粋に一拍子の音楽である。
それだけでも西洋音楽の視点からすれば不思議なことだが、さらに彼らにとってこの打ち方が奇想天外なのは、そのテンポと打音の強弱の関係である。
すなわちテンポからいえば、柝の打ち方はだんだんスピードが上がるので、音楽用語でいえばいわゆるアッチェレランド(アクセルする、加速する)なのである。しかるにスピードが上がるにつれてチャチャチャと動きが細かくなると、柝の音量はそれに伴って小さくなる。これは彼らには生理的理解を超越したことなのである。(中略)
西洋式では加速と音圧の上昇が並行するため、聞き手はその音圧に煽(あお)られて舞い上がる、興奮する、などの単純な反応しかできないが、日本式の加速と音量が反比例する関係においては、聞き手は一方において加速によって興奮に誘われながら、音圧が減少していくのを追いかけさせられる。つまり、音圧の減少による負の風圧に引きずり込まれ、己の興奮が拡散するのではなく、凝縮していくのを味わうことになる。
すべてのものは凝縮すれば内圧が高くなる。日本式の柝の打法は、こうして西洋式の単純な興奮では考えられない圧力の高い興奮を誘うことになる。
(引用終了)
<同書224−227ページ>
作家の栗田勇氏は、その著書“日本文化のキーワード”(祥伝社新書)において、「間」について次のように記しておられる。
(引用開始)
「間」という言葉は日本では「隙間(すきま)」というような空間的な意味にも、また「間に合う」という時間的な意味にも、「間が抜ける」といった状況の状態についても用いられる。
「間」とは、いわば切断された関係の、緊張による充実である。また、もっとも充実した空(くう)とも無ともいえる。かみくだいて言えば、人間の計算を超えた天然宇宙の絶対的なものが、向こう側から顔を見せる時空である。
(引用終了)
<同書78−79ページ>
この「柝の打法」こそ、「間」の駆使によって生み出される、日本音楽の真髄ではないだろうか。
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