前回「迷惑とお互いさま」の項で述べた、日本語の「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」について、「日本語の力」の項で紹介した“日本語はなぜ美しいのか”黒川伊保子著(集英社新書)にも同様な指摘があるので、以下、引用しつつコメントしてみたい。
(引用開始)
先に述べたとおり、母音語(日本語)の使い手は、話し合っているうちに意識が融和してしまう。このため、合意はうやむやにして、境界線を譲り合うのが、実のところ、組織の美しいあり方である。
なぜなら、母音語人に合議制を強要すると、妄信的でヒステリックな集団になってしまうことがあるからだ。
意識が融和して、話し合っている他者を自我の一部に取り込んでしまうために、「この人は自分とは違う」ということをどうにも認められなくなってくるのである。このため、大勢ができ上がって、強い連帯感が形成されると、大勢に合意できない者を激しく排除してしまうことがある。民主主義の基本精神とはほど遠い、思想統制が勝手に働いてしまう国なのだ。
合議制は、「他者は自分とは違う」と、目に見えて、そして身に染みて感じているアメリカのような国にこそふさわしい制度なのだと思う。
(引用終了)
<同書171−172ページ。括弧内は引用者による。>
日本語における「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」は、組織内の少数意見を排斥する力となる。そこで少数意見の持ち主たちは、自分の属する組織から離脱するか、あるいは組織内に少数派閥を作ろうとするわけだ。
(引用開始)
とはいえ、日本では、事実上多くの組織が、合議制のようなふりをしながら、陰では派閥の会合で境界線を探り合っている。功罪ともにあるが、まあ、いい落しどころなのじゃないだろうか。
(引用終了)
<同書172ページ>
日本の多くの組織が派閥均衡型であることは良く知られている。組織内で揉め事があっても、派閥の長らが集まって「いい落しどころ」を見つければ、ほぼ全員がそれに従うという慣習については、みなさんも実感するところではないだろうか。すなわち「空気を読む」ということである。それでも従わない頑固者はどうなるか。
(引用開始)
しかしながら、この国では、組織の少数派が、実に理不尽な吊るし上げや、激しい排除にさらされる危険性がある。男社会のシャープなキャリアウーマンや、進学校の夢見がちな少年、帰国子女、大阪のヤクルトファン、武士道に感激しないスポーツマン……誰かを激しく攻撃したくなったときには、一回だけ踏みとどまってみたほうがいいと思う。私たちは融和癖があり、この融和癖のせいで、思いもよらぬいじわるな思想統制を強いてしまうことがあるからだ。優しさが高じて残酷になるというのは、なんとも残念なことである。
(引用終了)
<同書172ページ>
黒川氏のいう「誰かを激しく攻撃したくなったときには、一回だけ踏みとどまってみたほうがいい」というアドバイスはとても重要だと思う。以前「エッジ・エフェクト」の項で指摘したように、生まれ育った社会の自明の理とされている世界観に対して距離を置く境界人(マージナル・マン)は、人生や現実に対して創造的に働きかける契機をもっており、組織が危機に陥ったときに再生の力を発揮する存在だからである。
健全な組織は、新しい息吹を吹き込む異物を自らの中に積極的に抱えていなければならない。このことは、「流域思想 II」で述べた、「多様性の尊重」という考え方とも通ずるものだと思う。
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