先日「日本語の力」の項で、
(引用開始)
日本語は母音を主体に言語認識するので、対話者同士の意識や自然との融和を促し、対話の場における<我>と<汝>の繋がりを生む。<我>と<汝>の繋がり、即ち「和」を生み出す日本語には、異質の物を調和させる力があり、それ故に、日本語は自然環境を守る力が強いのであろう。
(引用終了)
と書いたけれど、日本語の自然環境を守る力は、往々にして、自然環境に対してだけではなく、人為的な組織に対しても同じように働いてしまうようである。ボストン在住の心療内科医である海原純子氏は、新聞の連載コラムに次のように書いておられる。
(引用開始)
アメリカに住んで気がつくのは、「迷惑とお互いさま」の論理の違いである。日本では子供のころから、「人さまに迷惑をかけるんじゃありません」などと言われて育つから、他人の思惑か視線が行動の基準になったりする。
人さまに迷惑をかけないように努力するのは大事だが、逆にいうと、迷惑をかけられた時はひどく立腹して、相手の人間性を否定してしまうこともある。もう二度と付き合わない、などということもおきる。迷惑にはいろいろある。時間に遅れる。約束をキャンセルする。予定をかえる。こういったことで「迷惑をかけられて」トラブルになったりストレスを感じたりもする。
アメリカの場合は、「お互いさま」の論理が先行する。自分が迷惑をかけるかもしれないが、相手の迷惑にも許容範囲が広くなるというスタイルだ。ボストンに20年以上住んでいる日本人が、「迷惑をかけあう、という感覚ですかね」と言っていたが、この思考性に気づかないとアメリカに住むことはストレスになるだろう。(後略)
(引用終了)
<毎日新聞「一日一粒心のサプリ」11/15/2009より>
私もアメリカに長く住んでいたから、海原氏の指摘に同感する。アメリカに暮らしていて、「人さまに迷惑をかけるんじゃありません」といった意味のフレーズは聞いたことがない。そういえば日本には「見て見ぬ振り」「長い物に巻かれろ」「波風を立てるな」「仕方がない」など、社会や人に迷惑をかけないための慣用句が多い。作家の加賀乙彦氏は、その著書“不幸な国の幸福論”(集英社新書)のなかで、日本の社会について、
(引用開始)
集団の和を重んじ、見られる自分を強く意識する社会にあっては、相手の視線や言葉の裏に隠された勘定まで読み取って心配りのできる人が、高く評価されてきました。その繊細な感情ゆえに、日本独自の文化や芸術を生み出すことができたわけですが、一方で、人目を気にしすぎたり、主体性や自主性が育ちにくいという問題も生じてしまった。
(引用終了)
<同書52ページ>
と書いておられる。日本語の「自然環境を守る力」という本来の長所が、自然環境を超えて人為的組織にも及び、「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」という短所として働いてしまう、ということであろうか。
このブログでは、これまで「広場の思想と縁側の思想」の項などで、
(引用開始)
日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。
(引用開始)
<「広場の思想と縁側の思想」より>
という課題を提出し、「容器の比喩と擬人の比喩」などで、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」
という対比を見てきたが、日本語のこの「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」についても併せて考えていきたい。
この記事へのコメント
コメントを書く