前回「容器の比喩と擬人の比喩 II」の最後に、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題を提起したけれど、それに関連して、英語の「存在としてのbe」について考えてみたい。
存在としてのbeとは何か。まず、「並行読書法」でご紹介した、副島隆彦氏の主著のひとつである“BeとHaveからわかる英語のしくみ”(日本文芸社)から、be動詞の四つ用法について整理する。
(引用開始)
1.「存在」としてのbe
2.A=B(等価)としてのbe
3.S+V+CのVで説明としてのbe
4.It’s…の文の中にあるbe (is)
(引用終了)
<同書17ページの図から>
be動詞には、このように四つの用法がある。そのなかで、1.「存在」としてのbeは、主格中心の英語的発想の原点である。例として、”I think, therefore, I am”(我思う、故に、我在り)という、有名な格言を思い起こしていただければよい。この「存在」としてのbeについて、副島氏の同書からさらに引用しよう。
(引用開始)
●もっとも基本的なbe動詞とは、いったい何か?
1. Jazz is (ジャズの入門書のタイトル)
2. Miles is (マイルス・デイビスのアルバムのタイトル)
3. Chances are (ボブ・マーリィのアルバムのタイトル)
4. Love is (エリック・バードンのアルバムのタイトル)
上の四つの英文は、日本語に訳すとどうなるか。
1. ジャズとは……
2. マイルスが……
3. チャンスが……
4. 愛とは……
という訳がまず考えられる。(中略)
●「be」とは「〜が在る」ということ。「be=存在」なのだ
isを「……がある」と訳すこと。
すなわち、このbe動詞を「在る」と訳すことが、英語の学習の第一歩である。
beとは「存在」のことなのである。「在(有)る」ということだ。
従って、他の三つともに、
1. ジャズがある。
2. マイルスがいる。
3. チャンスがある。
4. 愛がある。
という訳にしなければならないのである。
(引用終了)
<同書14−16ページ>
1.「存在」としてのbeは、「AはBである」という形式の空間・容器の比喩では訳すことができない。このことが重要である。
2.A=B(等価)としてのbe
3.S+V+CのVで説明としてのbe
については、日本語の「AはBである」という空間の論理、すなわちベン図的な空間・容器比喩で訳しても、なんとか原文と同じ意味として理解することが出来るだろう。しかし、”Jazz is”のような「存在」としてのbeは、「AはBである」という形式の空間・容器の比喩では訳すことができないのである。「ジャズはジャズである」と訳しても意味をなさないのだ。
「存在」としてのbeは、「主体の論理」の表現そのものであり、日本語で多用される「空間の論理」では表現できない。このことは、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題において、きわめて重要な課題である。尚、4.It’s…の文の中にあるbe (is)は、1.「存在」としてのbeの変形である。
欧米文で書かれた「存在」としてのbeを、まず「……がある」「……がいる」と訳し、そのあと、さらに文脈に応じて、最適な日本語訳を与えること。副島氏は、
1. Jazz is
2. Miles is
3. Chances are
4. Love is
という上の四つの文について、
(引用開始)
私が、これらの四つを気のきいた訳に換えるとこうなる。
1. ジャズがわかる本
2. マイルス・デイビスのすべて
3. チャンスは必ずやってくる
4. 愛とはなにか
(引用終了)
<同書15ページ>
と書いておられる。このような翻訳の努力を通して、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題を考えていくことも大切である。
副島氏の“BeとHaveからわかる英語のしくみ”(日本文芸社)は、他にも、”have”、”get”や”would”、時制について、格文法理論など、英語と日本語に関する重要な項目が、図やイラスト入りで分りやすく解説してあり、英語を勉強する人の必読書である。副島氏にはまた、“英文法の謎を解く”(ちくま新書)、“続・英文法の謎を解く”(ちくま新書)、“完結・英文法の謎を解く”(ちくま新書)の三部作がある。
さて、ここで応用問題として、夏目金之助(号漱石)の“我輩は猫である”という小説のタイトルについて考えてみたい。これぞまさしく「AはBである」形式の日本語文である。まず、「容器の比喩と擬人の比喩」、「容器の比喩と擬人の比喩 II」で引用した“日本語は論理的である”月本洋著(講談社選書メチエ)から引用する。
(引用開始)
現代の日本語は、江戸末期や明治維新のころの日本語とはずいぶん変ったものになった。たとえば、「私は日本人である」という文は、現在ではまったくふつうの文である。しかし、この「〜は…である」という文は、明治時代に登場した表現であり、目新しくてハイカラな響きがしたようである。夏目漱石はそれを意識して、『我輩は猫である』という題にしたという説もある。(後略)
(引用終了)
<同書161ページ>
夏目漱石は、英国へ留学し、おそらく「存在としてbe」に遭遇し、カルチャー・ショックを受けたことであろう。帰国後かれは、日本語において”A is B”が「AはBである」と訳されていることに気付いた。ここまでの議論を踏まえれば、漱石はこの訳に違和感を覚えた筈だ。そこでかれは、明治社会を風刺するユーモア小説を執筆するに当たり、多少の批判精神と諧謔心とをもって、小説のタイトルにこの「AはBである」形式の日本語を採用したのではないだろうか。
結果として「我輩は猫である」は、表現の斬新さ、我輩と猫をつなぐ動詞が「存在」のbeなのか「説明」のbeなのかよく分らない曖昧さ、さらに猫が話すというそもそもの非現実性とを併せ持つ、類まれなる(多義的な)タイトルとして日本人の記憶に長く残ることになったのであろう。
曖昧さは漱石にも自覚されていたに違いない。なぜならこの猫には名前がないのである。「我輩は猫である。名前はまだ無い。」この小説が書かれたのは1905年、いまから100年ほど前のことだ。日本人は、この猫に名前を与えないまま、「存在」のbeをきちんと理解しないまま、そのあと100年を過ごしてきてしまったのではないだろうか。
ところで、この日本語の「我輩は猫である」の英訳だが、ネットで検索すると、”I am a cat”という訳が多いようだ。”I am the cat”では、「その猫」というニュアンスが強くなりすぎるからだろう。いずれにせよ上の議論を踏まえると、この訳は「説明」としてのbeに重きを置きすぎているように思える。漱石は、もっと「存在」としてのbeの部分を強調したかったのではないだろうか。「これは」という訳があればお寄せいただきたい。
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