前回「容器の比喩と擬人の比喩」の項において、
(引用開始)
命題論理とは、真偽を問う文同士の接続・比較ロジックであり、述語部分とは、「何々がこれこれをする」というような、文の主体−対象−動作に関するロジックである。命題論理は、「ベン図」などの空間・容器比喩で示されることが多く、述語部分は、数学のf(x)などと同様、「関数」として示されることが多い。
(引用終了)
と書いたけれど、述語部分には、「何々がこれこれをする」の他にもうひとつ、「何々はこれこれである」という文の形式がある。この「何々はこれこれである」という文は、場(空間)を設定する助詞「は」が使われているので、述語部分というよりも、むしろ、命題論理(容器の比喩)ではないのか?今回はこのことについて考えてみよう。
その前に、この先必要になるので、月本洋氏の“日本語は論理的である”(講談社選書メチエ)によって、論理学における「単文」と「複文」についてレビューしておこう。単文とは、述語部分であり、上で述べた「何々がこれこれをする」や「何々はこれこれである」などのように、それ以上分解できない文の単位である。複文とは、命題論理であり、「何々がこれこれをする、かつ、何々がこれこれをしない」「何々はこれこれである、または、何々はこれこれでない」などのように、「かつ」「または」という論理接続詞で、単文をつなげたものである。
さて、「何々はこれこれである」という言い方を英語にするとどうなるか。英語にすると、”A is B”とするのが妥当だろう。そして、英語の”A is B”であれば、主体−対象の関係を表わす擬人の比喩(主体の論理)として、たしかに述語部分であると理解できる。にもかかわらず、「何々はこれこれである」という日本語では、容器の比喩に変身してしまうのは何故なのだろうか。
月本氏は、そこに英文和訳の問題が横たわっているという。“日本語は論理的である”(講談社選書メチエ)からその部分を引用したい。
(引用開始)
(「何々はこれこれである」という文の形式は)英語では、
A is B
が基本である。これを日本語に訳すと、
AはBである
となる。(中略)そうすると、これは、助詞「は」を使っているので、容器の論理であり、主体の論理ではないと思われる読者もいよう。しかしながら、これは英語を日本語に訳した文であることに注意したい。isが「は……である」と対応しているが、そもそも「である」という語はisに相当するオランダ語を訳すために作られた造語である(中略)。
すなわち、isを「は……である」と訳すところで、主体の論理から容器の論理に移っているのである。言い換えれば、isという主体の論理の表現にもっとも近い容器の論理の表現が「は……である」なのである。
主体の論理では、AとBという個物が存在し、それをisがつなぐ。これに対して、容器の論理では、Aという場所が与えられ、それをBで解説する。この溝は埋めることができない。(後略)
(引用終了)
<同書125ページより。括弧内は引用者による注。>
いかがだろう。必要に迫られて、はじめて欧米文和訳を行なった人たちが、述語部分(主体の論理)の単文”A is B”を、容器の論理「AはBである」と訳してしまったのである。
A R.P.−英語的発想−主格中心−擬人比喩の多用
a 脳の働き−「公(public)」
B P.T.−日本語的発想−環境中心−容器比喩の多用
b 身体の働き−「私(private)」
という対比を考えれば、なぜ当時の日本人が、述語部分の単文”A is B”を、容器の比喩「AはBである」と訳してまったのかが理解できる。日本語的発想では、”A is B”という主格中心の欧米文も、「AはBである」という、環境中心の容器の比喩で表現せざるを得なかったのである。
先ほどの単文、複文の関係と、英語における「主体の論理」と「容器の論理」との関係について、月本氏は、英語の場合、単文(”A is B”のようにそれ以上分解できない文の単位)は主体の論理で構成され、複文(論理接続詞で単文をつなげたもの)は容器の論理で構成されるという。
ここまでで解るのは、論理学上、日本語と英語は、明治時代の英文和訳によって、特に単文において、「容器の論理」と「主体の論理」とに別れてしまったということである。
月本氏は、単文と複文、日本語と英語、容器の論理と主体の論理の関係を、以下のように纏めておられる。
(引用開始)
複文、すなわち単文の接続は、日本語も英語も容器の論理で組み立てられている(中略)。日本語の単文は、主に容器の論理で構造化されている。これに対して、英語の単文は、主に主体の論理で構造化されている。より正確にいえば、日本語の単文は、容器の論理等の空間の論理で構造化されるが、主体の論理で構造化されることもある。英語の単文は、主に主体の論理で構造化されるが、空間の論理で構造化されることもある。
(引用終了)
<同書126ページ>
今後、「広場の思想と縁側の思想」(1/27/09)の項から懸案であるところの、
(引用開始)
日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。
(引用終了)
<「広場の思想と縁側の思想」より>
という課題について、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題に置き換えて考えてみよう。
この記事へのコメント
コメントを書く