以前「メタファーについて」の項で、月本洋氏の“日本人の脳に主語はいらない”(講談社選書メチエ)を参照しながら、
(引用開始)
会話や文章で多用される「空間メタファー」は空間の論理であり、「擬人メタファー」は擬人の論理である。容器のメタファーは、閉じた曲線で区切られた空間の内と外という論理形式であり、擬人メタファーは、主体―対象―動作という論理形式である。
(引用終了)
と書き、このブログにおいて「公と私論」などで展開している、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」
という対比に、
A 英語的発想−擬人の比喩(メタファー)の多用
B 日本語的発想−容器の比喩(メタファー)の多用
という対比の追加を示唆した。
念のために、比喩の形式は論理形式そのものであるということについて、“日本人の脳に主語はいらない”から再度引用しておこう。
(引用開始)
「私の心は満たされない」という容器のメタファーは、心を容器と見立てている。すなわち、心を容器の形式を通して認識して思考している。このように、メタファーの形式は、認識や思考の形式であるといえる。言い換えれば、われわれはメタファーの形式を用いて抽象的なことがらを認識し、思考する。(中略)空間のメタファーで表現するということは、空間の論理で表現するということである。同様に、擬人のメタファー形式を、擬人の論理もしくは主体の論理と呼ぼう。擬人のメタファーで表現するということは、擬人の論理もしくは主体の論理で表現するということである(後略)。
(引用終了)
<同書84−85ページ>
月本氏は、そのあと去年の7月に出版された“日本語は論理的である”(講談社選書メチエ)において、日本語で多用される「容器の比喩」は、論理学や数学で使われる古典論理でいうところの「命題論理」に用いられる形式であり、英語で多用される「擬人の比喩」は、古典論理でいうところの「述語の部分」に用いられる形式であると書いておられる。私は論理学の専門家ではないが、私なりに理解したところを記してみよう。まず“日本語は論理的である”から引用する。尚、この本は去年の夏休みに読んだ本のなかの一冊である。
(引用開始)
古典論理は命題論理と述語から構成されるが、命題論理は容器の論理すなわち容器の比喩の形式であり、述語は主体の論理すなわち擬人の比喩の形式であることがわかった。
日本語の論理は空間の論理であり、日本語の論理の中心的役割を果たす「は」は容器の論理であるから、日本語の論理の基本は容器の論理である。したがって、日本語の論理の基本は命題論理なのである。これに対して、英語の論理は、主体の論理である。したがって、英語の論理は、述語の部分の論理であるといえる。(後略)
(引用終了)
<同書126ページ>
命題論理とは、真偽を問う文同士の接続・比較ロジックであり、述語部分とは、「何々がこれこれをする」というような、文の主体−対象−動作に関するロジックである。命題論理は、「ベン図」などの空間・容器比喩で示されることが多く、述語部分は、数学のf(x)などと同様、「関数」として示されることが多い。
この月本氏の“日本語は論理的である”において、日本語と英語は、同じ論理学の土俵の上で、検討・分析できるようになったと云える。単文と複文、日本語の「は」の役割など、詳しくは是非本文をじっくりとお読みいただきたい。
このブログでは、「メタファーについて」の前後、
「脳における自他分離と言語処理」(2/24/09)
「身体運動意味論について」(4/7/09)
「メタファーについて」(4/14/09)
「心と脳と社会の関係」(4/21/09)
「社会の力」(4/28/09)
という一連の項において、
I 日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が多い(文化的特徴)
II 日本人は母音を左脳で聴く(身体運動意味論などより)
III 日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない(脳科学の知見より)
IV 日本語に身体性が残り続ける(社会的特性)
という循環運動(IVから再びIへ)を提示・分析し、「広場の思想と縁側の思想」(1/27/09)の項から懸案であるところの、
(引用開始)
日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。
(引用終了)
<「広場の思想と縁側の思想」より>
という課題について考えてきた。この循環運動と、
A R.P.−英語的発想−主格中心−擬人比喩の多用
a 脳の働き−「公(public)」
B P.T.−日本語的発想−環境中心−容器比喩の多用
b 身体の働き−「私(private)」
という対比からさらに何が見えてくるか、また項を改めて考えてみたい。
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