“賢い皮膚”傳田光洋著(ちくま新書)を読む。本書は、同氏の“皮膚は考える”(岩波書店)、“第三の脳”(朝日出版社)における知見を総合的により詳しく纏めたものだ。傳田氏は資生堂研究所の主任研究員である。本のカバー裏の紹介文を引用しよう。
(引用開始)
今、皮膚科学が長足の進歩を遂げている。医療や美容からのアプローチだけではうかがいしれない、皮膚メカニズムが次々に解明されつつあるのだ。「年をとるとしわができるのはどうして」、「お肌に良い物質はなにか」といった身近なトピックから、「皮膚が脳と同じ機能を担っているとしたら」というにわかには信じられない働きにまで本書は迫っていく。薄皮に秘められた世界をとくと堪能していただきたい。
(引用終了)
皮膚は生体と外界の境界である。以前「エッジ・エフェクト」のなかで「境界」の重要性を指摘したけれど、外環境との間で皮膚に何がどう起っているのか、とても興味深いテーマである。
ここで私の「皮膚」に関する興味視点を整理しておきたい。勿論、傳田氏の著書に導かれてのことである。
一つは、皮膚の自律システム(イオン濃度変化と電場の形成、バリア層、免疫の働きなど)についてである。以前「免疫について」で述べたと同じく、身体の健康を保つためには皮膚に対する様々な知識が欠かせない。
二つは、体表と経絡ネットワークについてである。傳田氏は、自らの体験なども踏まえて、体表(表皮)そのものに、神経系・循環器系とは別の「経絡ネットワーク」とでもいうべき情報経路が存在するのではないか、と推察されている。以前「脳について」のなかで、脳内の情報伝達の仕組みについて、ニューロン・ネットワークの他にもう一つ高電子密度層があり、その仕組みが人の「内因性の賦活」を支えているという説に言及したけれど、体表そのものに神経系・循環器系とは別の情報経路が存在するという説は、人の脳と身体を考える上で大変興味深い。
三つは、肌と五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)との関係である。傳田氏は、いろいろな実験から、肌には通常考えられている「触覚」としての働き以上のものがあるのではないか、と推察されている。以前「視覚と聴覚」のなかで、第三の目としての「松果体」について言及したけれど、肌と視覚、肌と聴覚の関係は奥が深いと思う。
ところで、「サラサーテのことなど」で引用した平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)の、「蘭陵王」という短編小説の中に次のような一文がある。
(引用開始)
私は全身の汗と泥を、石鹸の泡を存分に立てて洗いながら、皮膚というものの不思議な不可侵に思いいたった。もし皮膚が粗鬆(そしょう)であったら、汗や埃はそこにしみ入って、時を経たあとは、洗い落とそうにも落とせなくなるに違いない。皮膚のよみがえりとその清さは、その円滑で光沢ある不可侵性によって保証されているのだ。それがなければ、私たちは一つの悪い夢から覚めることもならず、汚濁も疲労も癒さず、すべてはたちまち累積して、私たちを泥土に帰せしてめであろう。
(引用終了)
<「蘭陵王」三島由紀夫著(新潮社)252ページより。本文は旧かな。引用者が新かなに変換した>
平岡公威は、「精神と肉体」という二元論を身をもって追求した人だが、同時に、皮膚という「表面それ自体の深み」にも強い関心を寄せていた。“太陽と鉄”三島由紀夫著(講談社文庫)からも引用しよう。
(引用開始)
人間の造形的な存在を保証する皮膚の領域が、ただ閑静に委ねられて放置されるままに、もっとも軽んぜられ、思考は一旦深みを目ざすと不可視の深淵へはまり込もうとし、一旦高みを目指すと、折角の肉体の形をさしおいて、同じく不可視の無限の天空の光へ飛び去ろうとする、その運動法則が私には理解できなかった。もし思考が上方であれ下方であれ、深淵を目ざすのがその原則であるなら、われわれの固体と形態を保証し、われわれの内界と外界をわかつところの、その重要な境界である「表面」そのものに、一種の深淵を発見して、「表面それ自体の深み」に惹かれないのは、不合理きわまることに思われた。
(引用終了)
<同書22ページより>
自決によってその追求は叶わなかったけれど、日本と西洋文明との間を行き来するマージナル・マンとして、平岡氏は皮膚という「肉体と外界との境界性」にも敏感だったのだろう。
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