“ヘミングウェイの酒”オキ・シロー著(河出書房新社)を読んでいたら、フロリダのキー・ウエストにある「スロッピー・ジョーズ」という名の酒場のことが書いてあった。同書は、ヘミングウェイに纏わる名酒の数々を、唐仁原教久氏の挿絵とともに綴った素敵な本だ。その帯には「大人の男たちが憧れ続ける永遠のアイコン、ヘミングウェイの作品と人生を彩った名酒の数々をオキ・シローが語り尽くす、味わい深い一冊。」とある。「スロッピー・ジョーズ」について書かれた部分から引用しよう。
(引用開始)
ヘミングウェイがパリでの生活を終え、二番目の妻ポーリンとアメリカへ帰国したのは1928年、二十九歳の時のこと。その途中、ほんの数日のつもりで立ち寄ったのがこのキー・ウエストだった。(中略)
数日間の滞在予定が数週間に伸び、結局十一年間もヘミングウェイはこのキー・ウエストで暮らす。その最大の要因は、シルバー・スリッパーという名の酒場で、土地の男たちと親交を持ったことにあった。中でも、彼の後半生を方向付けた「海の素晴らしさ」を教えてくれた男、スロッピー・ジョーことジョー・ラッセルとの出会いは決定的だったようだ。
(引用終了)
<同書114−115ページ>
シルバー・スリッパーという名の酒場は、やがてそのスロッピー・ジョーが買い取り、店の名前も「スロッピー・ジョーズ」となったという。
(引用開始)
パリ時代とはまるで異質の酒場。ここでヘミングウェイはもっぱらスコッチのソーダ割りを飲み、土地の男たちと親しんだ。文学とは全く無縁の男たち。そして海。愛艇ピラール号を購入したのもこの時期なら、三番目の妻マーサとであったのもこの酒場でだった。キー・ウエストに住まなければ、キューバに渡ることも、名作『老人と海』が生まれることも無かったかもしれない。まさに人生の分岐点。その意味でスロッピー・ジョーの店は、ヘミングウェイにとってどこよりも特筆すべき酒場だったと思う。
その後、スロッピー・ジョーズは現在のデュバル通りに移転。ヘミングウェイが愛したバーとして、大繁盛を続けている。
(引用終了)
<同書116ページ>
さて、“エリアガイド/135 アトランタ・ニューオーリンズ・マイアミ”津神久三著(旺文社)を見ると、キー・ウエストにある「キャプテン・トニーズ・サルーン」という名のバーについて、
(引用開始)
フロリダ州最古のバーの一つ。「パパ」ことヘミングウェイとスロッピー・ジョーとの間の親交は、文学好きの人ならよく知る話。2人はこのスロッピー・ジョーの店で、共に飲み、語り、時には腕ずもうに興じた。ジョーの語る気高くも荒々しき海の話が、ヘミングウェイの創作の心を大いに刺激したともいわれる。この店をジョーから引き継いだのがトニー船長、ということからこの名がある。名刺がベタベタ貼られた壁や、バラック然とした粗野なつくりを見ると、いかにもヘミングウェイ好み――の気持ちにもなる。事実、「パパ」が3番目の妻マーサと出会ったところだ。(後略)
(引用終了)
<同書189ページ>
とある。私もフロリダで暮らしていた頃、幾度かキー・ウエストへ遊びに行ったことがあるが、当地で、ヘミングウェイとスロッピー・ジョーが良く飲み明かしたのは「スロッピー・ジョーズ」ではなく別の酒場だった、と聞いたことがある。
“エリアガイド/135 アトランタ・ニューオーリンズ・マイアミ”には、その「スロッピー・ジョーズ」のことも載っている。
(引用開始)
(前略)伝説化された人物にかかわりある場所の、本家争いはどこにもあるようだ。この店の奥の部屋が、実は「パパ」ヘミングウェイとジョーが飲みあかしたところだという。古い写真、「パパ」がつりあげたという魚の剥製と、ヘミングウェイだらけの店。店がミジット・バーという名前だった頃、ヘミングウェイがよく来たのは確かで、ここも彼のごひいきの一軒だったのだろう。(後略)
(引用終了)
<同書190ページ>
ヘミングウェイとスロッピー・ジョーは、両方のバーでよく飲み明かしていたのだろう。としても、ヘッミングウェイが三番目の妻マーサと出逢ったのは、果たして何処だったのだろうか。私はどちらのバーへも行かなかったけれど、街の見物は充分に楽しんだ。特に、岸壁から眺めたアメリカ最南端の夕焼けは忘れがたい。
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