
永井壮吉(号荷風)に関する本、“朝寝の荷風” 持田叙子著(人文書院)から引用しよう。
(引用開始)
永井荷風の文学の一つの鍵は、庭であり、そこに咲き薫る花々である。今、もっぱら二十代から四十代にかけての彼の日記・小説・エッセイを読みすすめているところなのだが、そこにはなんと魅惑的な庭々が登場することか。しかもそれらはただ美しく光り輝き、彼になぐさめと癒しをもたらしているばかりではない。そこにはありありと荷風のひそかな慟哭や苦しみ悩みも刻み込まれ、樹々も花々も彼とともに息づく。
親孝行は人間の原点、家を興し子孫をなすことが当然の明治の世において、自身の感情や完成を最優先し独身を貫く荷風は、ある意味で怪物(モンスター)だ。彼の庭の一面は、その怪物化を助長し、世間の既存の概念の侵入を防ぐ楯であり、城郭である。けれど現実にはその城郭の、なんと脆く儚いことか。荷風の日記には、樹々や花々で構成されるその楯があっけなく崩壊し、怪物の自分がひとりで巷に放り出される哀しみの涙もつづられている。
これからそっと荷風の心の小径をたどり、彼が大切に育てる庭をのぞいてみたい。純白の花が咲き乱れ、樹々に風渡り蜜のように甘く匂うその秘密の花園で私たちは、少女のように無垢でたおやかな荷風に出逢うかもしれない。あるいは血まみれになって抗いもがく怪物の荷風に逢うかもしれない。とまれまず一歩、しずかに小径を踏み出そう。(後略)
(引用終了)
<同書67−68ページ>
私も庭が好きだ。以前「里山ビジネス」のなかで、
(引用開始)
たとえば庭園である。庭園は人が快適さを求めて作ったという面では都市の一部だが、花や樹木の生息という意味では自然の一部でもある。(後略)
(引用終了)
と書いたが、先回「楕円形と斜線分」で描いた図上、庭の属する領域を緑色で表してみると、

となる。「楕円形と斜線分」のなかで、
(引用開始)
基本的に「都市の働き」は左側、「自然の働き」は右側だが、楕円内部の斜線によって、「庭園」など都市の機能に組み込まれた自然の一部が「公(public)」の領域に属し(左上)、「廃墟」など自然に還った都市の一部が「私(private)」の領域に属している(右下)ことを現している。
(引用終了)
と書いたのはこのことを言葉で表現したものだ。庭園は、人々の「心の城郭」として、都市と自然との境界に存在している。
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