前回の「メタファーについて」に引き続き、月本洋氏の「日本人の脳に主語はいらない」(講談社選書メチエ)から、今回は「心と脳と社会の関係」について考えてみたい。
月本氏は、子どもの言葉の発達、親の模倣などの観察から、脳における「自他分離」と、「仮想的身体運動」とが密接に相関しているということを指摘する。
(引用開始)
(前略)子どもが言葉を覚えるということは、親の言葉の使い方(用法)を模倣しながら、自分の仮想的身体運動を組織化していき、イメージを作っていくということであるといえる。(後略)
(引用終了)
<同書108ページ>
子どもは、身体運動のみの状態から、次第に模倣を通して身体運動の仮想化が出来るようになり、五歳くらいで自他分離が完成すると、イメージを仮想的身体運動によって作っていくことが出来るようになるという。
月本氏は次に、人は他人の心をもこの「仮想的身体運動」によって理解していると述べる。
(引用開始)
他人の心を理解するとは、他人の振る舞いや顔の表情から、自分の脳神経回路を使って他人の心を想像するということである。すなわち、他人の振る舞いの意味とは、他人の振る舞いを見ることにともなう想像(仮想的身体運動)である。(中略)前章では、言葉の理解は仮想的身体運動でなされると言ったが、他人の心の理解も仮想的身体運動でなされる。言い換えれば、言葉の意味は仮想的身体運動であるが、同様に、他人の振る舞いや顔の表情の意味も仮想的身体運動である。
(引用終了)
<同書118ページ>
月本氏はさらに、心というものはこのような脳の働きであり、それは自己完結的なものではなく、複数の人間の間に作用する相互作用であるとする。氏は、物質間に重力が相互作用を及ぼしているように、人間には心が相互作用を及ぼしているという。
(引用開始)
心も(重力と)同様に考えられないだろうか。複数の人間のあいだに作用する相互作用なのだから、それをどれか一つの人間の中に見つけようとすることはあまり意味のあることではないし、それが見えないからといって、存在しないと考えることも間違っているのではないだろうか。
(中略)
自分というものは、そんなに秘密なものではない。自分は他人の模倣を通してしか作れないのであるから、その出発点からして社会的なのである。自分とは原理的に社会的なのである。社会的でない自己は、ある意味で壊れた自己である。それは自己として機能しないし、自分にとっても理解不可能な自己になる。
私は、私とあなたに分かれた片割れである。それは、他人の視線、顔の表情、身体動作を模倣することで、神経回路を訓練することで、作られたものである。
(中略)
重力がどこにあるのかといわれても、それは目でみることはできない。目で見えるのは、その重力によって変形を受けた二つの物体の内部の安定的な変形である。同様に、自己も心的相互作用によるわれわれの身体の変形として存在する。それは、一つの身体では「私」として、もう一つの身体には「あなた」として存在する。だから、自己の本質的な在り処は、自分の中にはないことになる。それは自分と他人の間にあるということである。
(引用終了)
<同書132−135ページ、括弧内は引用者による補足>
いかがだろう。自分というものは自分の中にあるのではなく、自分と他人との間(社会)にあるとするこの考え方は、環境と知覚とが、運動を通して一体であるとするアフォーダンス理論と非常に近い考え方だと思われる。かくて、「身体運動意味論」は、言葉だけではなく、思考と社会そのものをアフォーダンス理論と結びつけるのである。
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