前回の「身体運動意味論について」に引き続き、月本洋氏の「日本人の脳に主語はいらない」(講談社選書メチエ)から、今回は「メタファー」について考えてみたい。
メタファーとは、日本語で「比喩」とか「暗喩」とよばれる表現方法である。月本氏によると、人はメタファーを使うことで、抽象的な言葉をも「仮想的身体運動」として表現しているという。
(引用開始)
(前略)抽象的な表現は、現実的な物理世界に対応物がないので、われわれは仮想的身体運動ができない、すなわちイメージを作れない。このような直接的に身体運動ができない領域を抽象的領域という。抽象的な領域は、たとえば、文化、経済、政治、理論などである。抽象的領域のイメージは、メタファー表現を通して、具体的領域のイメージをつかって作られる。
(引用終了)
<同書70−71ページ>
月本氏の分類によると、メタファーには大きく分けて二つのカテゴリーがある。一つは視覚、聴覚、嗅覚などの「知覚的メタファー」であり、もう一つは擬人、食物などの「非知覚メタファー」である。会話や文章で多用されるのは、容器や方向、運動や存在などの「空間メタファー」(「知覚メタファー」の一種)と「擬人メタファー」だという。「心が満たされない」、「地位が上がる」は、それぞれ容器、方向の空間メタファーであり、「台風が襲う」、「首尾一貫」などは擬人メタファーである。
月本氏は、メタファーは経験の形式であるという。
(引用開始)
メタファーの形式は経験の形式である。経験の形式とはわれわれ人間が世界をどう経験しているかの枠組みであり、意味のある経験はかならずその形式を持っているような形式のことである。言い換えれば、その形式から外れたような経験は、われわれにはできないような形式である。たとえば、容器のメタファーの形式は、われわれ人間が三次元物理世界の皮膚で区切られた容器であることに、その理解の基礎がある。
(引用終了)
<同書85ページ>
前回「身体運動意味論について」の最後に、
(引用開始)
言葉における身体運動意味論と、知覚システムにおけるアフォーダンス理論とは、「運動を通してこの世界を日々発見する」という点において、非常に近い考え方だと思われる。
(引用終了)
と書いたけれど、このメタファーこそ、言葉とアフォーダンスとを繋ぐ鍵なのである。人はメタファーを使うことで、抽象思考と身体運動とを結び付けているのである。
月本氏はまた、メタファーの形式は論理形式そのものであるという。
(引用開始)
「私の心は満たされない」という容器のメタファーは、心を容器と見立てている。すなわち、心を容器の形式を通して認識して思考している。このように、メタファーの形式は、認識や思考の形式であるといえる。言い換えれば、われわれはメタファーの形式を用いて抽象的なことがらを認識し、思考する。(中略)空間のメタファーで表現するということは、空間の論理で表現するということである。同様に、擬人のメタファー形式を、擬人の論理もしくは主体の論理と呼ぼう。擬人のメタファーで表現するということは、擬人の論理もしくは主体の論理で表現するということである(後略)。
(引用終了)
<同書84−85ページ>
会話や文章で多用される「空間メタファー」は空間の論理であり、「擬人メタファー」は擬人の論理である。容器のメタファーは、閉じた曲線で区切られた空間の内と外という論理形式であり、擬人メタファーは、主体―対象―動作という論理形式である。
「脳と身体」、「脳における自他認識と言語処理」などで引用した月本氏の、
(引用開始)
日本語は、空間の論理が多く、主体の論理が少ない。これに対して、英語は、主体の論理が多く、空間の論理が少ない。
(引用終了)
<同書235−236ページ>
という指摘は、日本語と英語における、空間メタファーと擬人メタファーの使用頻度を観察したものなのである。
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