これまで「脳について」「言葉について」「脳における自他認識と言語処理」で引用してきた月本洋氏の「身体運動意味論」について、その内容を整理しておこう。
まずはもう一度「日本人の脳に主語はいらない」月本洋著(講談社選書メチエ)からその部分を引用する。
(引用開始)
身体運動意味論は、極めて簡単にいうと、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」というものである。
(引用終了)
<同書4ページより>
月本氏は、「言葉の意味を理解する」ということを二つに分けて考える。一つは、その言葉を聞いてイメージを作ることが出来る「想像可能性」であり、もう一つは、記号を形式的に処理することが出来る「記号操作可能性」である。「黄金の山」という場合は前者の例、「9次元空間」は後者の例だ。
氏は、「記号操作可能性」は「想像可能性」に基づいているという。人は、言葉に慣れればイメージを伴わずに理解することが出来るが、初めはどうしてもイメージが必要であるというわけだ。その上で氏は、「想像」には身体が絡んでいるという。
(引用開始)
一九九〇年代に入って、脳の非侵襲計測が使われるようになった。「非侵襲計測」という言葉をはじめて見る人が多いかと思う。簡単に説明すると、頭蓋骨を開けて脳に触れると脳に影響を与えてしまうが、そのような脳に対する影響(=侵襲)を与えずに行う脳の機能の計測のことである。
この非侵襲計測によって、想像するときに活動する脳の部分と、実際に動かすときに活動する脳の部分は基本的に同じであるということが実験的に確認された。すなわち、想像するときにも、実際に身体を動かす脳の部分が動くのである。想像するときに脳の神経活動は、実際の身体運動の神経活動と基本的に同じだということである。身体を動かす脳神経回路が実際の身体運動をともなわずに活動することを、仮想的身体運動と呼ぶことにする。想像は仮想的な身体運動なのである。
(引用終了)
<同書28−30ページ)
この仮想的身体運動は、身体運動以外の想像においても当て嵌まる。
(引用開始)
「猫」という言葉を聞けば、私の頭の中に猫のイメージが浮かぶ。このような想像も仮想的身体運動といえるのであろうか。すなわち、どこかの身体が仮想的に動いているのであろうか。答えは「はい」である。猫のイメージを浮かべているときには眼球を仮想的に動かしているのである。
(引用終了)
<同書41ページ>
実際の運動と仮想的身体運動との違いは、末梢神経が動くか動かないか、筋肉からのフィードバック信号があるか無いかなのである。
次に氏は、「言葉の意味を理解する」というときの「言葉の意味」について三つの意味論を提示する。
(引用開始)
1.言葉の意味とはその指示対象である(指示対象意味論)
2.言葉の意味とは、その心的イメージである。(イメージ意味論)
3.言葉の意味とはその用法である。(用法意味論)
(引用終了)
<同書49−50ページ>
身体運動意味論は、猫を見たときに活動する脳の部分と、猫を想像するときに活動する脳の部分が基本的に同じであるということだから、1.指示対象意味論と2.イメージ意味論の二つを統合する。言葉の意味は、さらに他人との対話を通して3.用法意味論へと繋がっていく。身体運動的意味は、用法的意味によって(他人との対話を通して)絶えず修正される。新しい言葉が社会に定着するかどうかは、皆がその新しい言葉のイメージを共有できるかどうかにあるわけだ。
(引用開始)
実社会では、このような身体運動的意味と用法的意味の戦いが常に行なわれている。子どもの頃は、親の言葉の用法を真似して、イメージを作る努力をする。若者は新しい言葉を作る。それが、テレビ等のマスコミを通して、多くの人に伝えられる。その新語のいくつかは消えていき、いくつかは、定着して辞書に載るようになる。
(引用終了)
<62ページ>
身体運動意味論は、1.指示対象意味論と2.イメージ意味論を統合する一方で、3.用法意味論と常に拮抗関係にあるということが云える。
以上内容を整理してきたが、「身体運動意味論」の重要性は、行動主義の得意とする刺激反射反応と、認知主義の得意とする記号処理とを、(脳と身体を一元的に見ることで)統合的に捉えることが出来るところにある。これは言葉というものを考えていく上で、とても大切な理論だと思う。身体運動意味論はまた、以前述べたアフォーダンス理論に近いという意味でも興味深い。
(引用開始)
たとえば椅子とは何であろうか。あるものが椅子として意味を持つのは、椅子の材質とか色とかによるのではない。椅子の材質が木であろうが鉄であろうがプラスティックであろうが、通常は固体であればなんでもいい。色も同様である。赤であろうが茶色であろうが何でもよい。形も同様である。このように、材質、色、形等で椅子を定義することは出来ない。あるものが椅子かどうかは、ひとえにそのものが椅子として機能するかどうかにかかっており、椅子として機能するかどうかは人間の身体に関わっている。(中略)すなわちわれわれの身体が、あるものを椅子として現出させるのである。われわれの身体が、路傍の木の切り株を椅子として現出させるのである。
(引用終了)
<同書47−48ページ>
以前書いた「アフォーダンスについて」から引用しよう。
(引用開始)
アフォーダンス理論では、我々の住むこの世界は、古典幾何学でいうような、直線や平面、立体でできているのではなくて、ミーディアム(空気や水などの媒体物質)とサブスタンス(土や木などの個体的物質)、そしてその二つが出会うところのサーフェス(表面)から出来ているとされる。そして我々は、自らの知覚システム(基礎的定位、聴覚、触覚、味覚・嗅覚、視覚の五つ)によって、運動を通してこの世界を日々発見する。
(引用終了)
いかがだろう。言葉における身体運動意味論と、知覚システムにおけるアフォーダンス理論とは、「運動を通してこの世界を日々発見する」という点において、非常に近い考え方だと思われる。それが何を意味するかについては、別途項を改めて考えてみたい。
この記事へのコメント
コメントを書く