以前「公(public)と私(private)」のなかで、
「日本社会になぜ公的意識が根付かないのか、日本の都市になぜ広場が無いのか、日本人はなぜユーモアのセンスがないのか、等々の疑問への答えの一部が見えてくる。そもそも日本語的発想は、『公的表現』を構築する力が弱いのだ。」
と書いたが、広場について、「ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか」佐野敬彦著(平凡社)から引用してみよう。佐野氏は、大阪芸術大学(環境・建築芸術学)教授で、長くヨーロッパで美術や建築を研究された方である。
「ヨーロッパと日本の都市の風景の違いを考える時、まっさきに浮かんでくるのはヨーロッパの広場の情景であり、反対に日本には広場がないということである。」(同書68ページ)
「広場はギリシャのアゴラやローマのフォールムから始まった。アゴラは政治討議や代表の決定を聞くための民会が行なわれる集会の場であると共に、市場広場であった。フォールムも公共広場と訳されるように政治と商業のための場であった。」(71ページ)
「日本では、例えば東京には広場がない。駅前広場というものがあるが、広場というには名ばかりで、バスやタクシーのターミナルになっている。車のためのものである。都心で見ると、銀座にはもちろん広場がない。新宿の歌舞伎町にはコマ劇場前の小空間があるが、現在ではイベントのための空間となっている。かつてJR新宿駅西口は地下広場といわれ、若者が集まってフォークソングなどを歌ったりしたところだが、通路であるとされて禁止されることとなった。(中略)歴史的に民主政治のなかった日本では市民のための広場はなかった。積極的につくらないようにしてきた。それがいまも続いている。」(83ページ)
「広場の思想」は、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」
と対応するのだろう。以前「建築について」で書いたように、都市と建物について語るには、その国の言葉の本質に迫らなければ成らない。日本に「広場」がないのは、誰かが作らないようにしてきたというよりも、「歴史的に民主政治のなかった日本」に、公的表現を構築する言葉(日本語)が充分に育っていないから、誰にも「広場」を作ることが出来ない、と云った方が正確だと思う。
一方、日本の建築の良さは何処にあるのか。建築家の隈健吾氏はそれを「自然と対話する能力」にあるという。氏の新著「自然な建築」(岩波新書)から引用しよう。
「その意味で、日本の大工は驚くほどラジカルである。しばしば、家を建てるならその場所でとれた木材を使うのが一番よいと語り伝えてきた。機能的にも、見かけも一番しっくりくると伝えた。それを一種の職人の芸談として、神秘化してはいけない。場所に根の生えた生産行為こそが、存在と表象とをひとつにつなぎ直すということを、彼らは直感的に把握していたのである。その方法の現代における可能性を、具体的な場所を通じて、ひとつひとつ探っていくのが、この本の手段である。」(同書16ページ)
隈氏は、新聞に次のように書いておられる。
「自分をとり囲む、自分では手に負えず、コントロールできないものと対話し、とことんつきあっていく能力が残っている状態を『自然』と呼びたい。美しい景色が残っていれば『自然』が残っているわけではない。(中略)日本には幸いにそんな『自然』が残っている事を、なるべく具体的なエピソードとして伝えたくなって、自分でもドキドキしながらこの本を書いた。」(東京新聞12/2008「自著を語る」より)
さらに、日本の伝統建築に魅せられたアメリカ人建築家で、ご自身も京都の町家に住んでおられるジェフリー・ムーサス氏は、その著書「『縁側』の思想」(祥伝社)の中で、日本建築の象徴として「縁側」について語っている。
「町家を改造していく中で、私が最も関心を持ったのは、日本建築における『あいまいな場所』です。例えば、縁側は屋根があるので『外』ではありませんが、壁がないので完全な『内』でもありません。この『あいまいさ』こそが、日本建築における独自の要素、コンセプトであると私は考えています。」(同書11ページ)
「このように、西洋と日本の建築技術は異なる形で発展していきました。そしてそれは自然に対する接し方にも影響したといえるでしょう。アメリカとヨーロッパでは、壁が外と内の境界を作ったため、住民と自然とを分離してしまい、未知なる自然への恐れや畏怖心を持つことにつながったのです。ハリケーンなどはコントロールできない脅威とし捉えられています。
ところが、日本人は家に居ながらも自然に接してきたため、長い歳月の中、台風などの自然の猛威を経験しながらそれを受け入れ、豊かな気持ちで暮らす知恵を育んできたようです。生け花から食べ物に至るまで、四季おりおりのを楽しむ日本人の生活習慣が、それを証明しているといえるでしょう。」(106ページ)
「日本の伝統的な家屋は外と内の境界がはっきりしておらず、外から内、内から外へと段階的に連なっているようです。第二章でお話したように、町家の構造にはとりわけその特徴が顕著で、層(layer)になっていて、外でもなく内でもない中間的なあいまいな場所があります。
このような場所として、日本人にとって最もイメージしやすいのが『縁側』です。縁側は家の外でしょうか?それとも家の内でしょうか?」(107ページ)
いかがだろうか。「縁側の思想」は、
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」
と呼応している。日本語的発想には、豊かな自然環境を守る力が育まれているのだ。
このように、広場の思想と縁側の思想は、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」
それぞれから生まれる。従って、個人にとって脳と身体の働きのバランスが大切なように、日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、この二つ(広場の思想と縁側の思想)を上手くバランスさせていくことだと思われる。
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