これまで「集団の時間」や「公(public)と私(private)」などでみた脳と身体、都市と自然について、徹底的に論じてきたのが解剖学者の養老孟司氏である。私の考察は多く氏の著書に啓発されてきた。最近、初期の「唯脳論」に並ぶ論考「人間科学」養老孟司著(筑摩書房)がちくま学芸文庫に収録された(「養老孟司の人間科学講義」)ので、興味のある方は是非お読みいただきたい。
「養老孟司の人間科学講義」の中に、言葉に関して、視覚と聴覚の観点から論じた部分がある。一部引用してみよう。
『もっとも重要な点は、言語が聴覚と視覚に共通な情報処理過程として成立していることである。(中略)ところが言語が視聴覚という、まったく異質な二つの感覚を「結合する」からこそ、音声言語はたとえば擬音語をしだいに排除し、文字言語は象形文字の「象形性」を消していくのである。(中略)こうして近代言語は、聴覚に特有、および視覚に特有の性質を、言語の記号系から排除しつつ成立する。』(同書196−198ページ)
近代化が都市化=脳化のことであるとすれば、英語的発想と日本語的発想の対比、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」
から、日本語に擬音語や擬態語が多い(「日本語について」)理由が納得できる。脳の働きによって排除されるべきオノマトペ(擬音語や擬態語)が未だ多く見られる事実は、象形文字としての漢字が使われていることとも相俟って、日本語に身体性が色濃く残っている(身体の働きが重視される)証拠だろう。
視覚と聴覚の関係については、「カミとヒトの解剖学」養老孟司著(ちくま学芸文庫)にも面白い指摘がある。解剖学的にいうと、もともと脊椎動物には「第三の目」とでもいうべき光受容細胞があり、ヒトを含む哺乳類ではそれが「松果体」と呼ばれる器官に転化しているらしい。
『そういうわけで、視覚系というものを、目だけではなく、松果体を含めた広義のものと考えるならば、脊椎動物は、脳の下位中枢と深く関連する光受容器すなわち「第三の目」を、いまわれわれが持っている通常の「目」と独立に持っていた、あるいはいまでも持っているのである。そこに、われわれの現在持つ「目」が、耳と異なって、下位の脳と関連が薄い理由があるのではないか。ここでは視覚系は、一種の「二重構造」を示すことになる。耳であれば「陶酔」に関連するような、生に対してより「根源的」な部分を、視覚系では、もともと松果体が受け持つ。ところが、哺乳類では、なぜかそれが脳との直接の関連を絶ってしまう。それによって、深いところで我々を支配する「根源的なもの」と視覚との連関が絶たれ、単純で透明で明晰な「アポロ世界」のみが、現にわれわれが目として知っている構造によって構成される。他方、耳では両者がおそらく相変わらず渾然一体となっているのである。』
いかがだろう、これが、なぜ視覚がより明晰なプラトン的世界に親和性をもち、聴覚が混沌としたアリストテレス的世界に親和性があるかということに対する養老氏の推論なのである。
これからも養老孟司の数々の知見を参考にしながら、脳と身体、都市と自然、言葉などについて考えて行きたい。
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