これまで「現場の英語」シリーズや「ホームズとワトソン」などで、
A Resource Planning(R.P.)−英語的発想−主格中心
B Process Technology(P.T.)−日本語的発想−環境中心
という対比をみてきた。ビジネスを行っていく上での重要ファクターだった訳だが、今回はこの対比についてさらに踏み込んで考えてみたい。
まずAとBの違いをもう一度整理しておこう。英語的発想は思考の原点に自分という「主格」を置くのに対して、日本語的発想はそれを置かず「環境」を主体にして思考する。「主格中心」の発想法はものごとを分析的に考えるR.P.的思考に優れ、「環境中心」の発想法は自ら動きの中に飛び込んでものごとの改善を図るP.T.的活動に優れている。企業経営には、この二つを同時に備えた包容力が必要である。
「脳について」で紹介した「日本人の脳に主語はいらない」(講談社選書メチエ)の著者月本洋氏は、ご専門の人工知能やデーターマイニング、最近の脳科学の実験などから、日本語と英語の特徴をそれぞれ摘出し、
「日本語は、空間の論理が多く、主体の論理が少ない。これに対して、英語は、主体の論理が多く、空間の論理が少ない」(同書235−236ページ)
と述べておられる。「空間」を「環境」という言葉に置き換えれば、私の指摘と重なると思う。
さて、以前「アフォーダンスと多様性」で脳と身体の話をした。
「人は、常に現在進行形としての脳と、一定の寿命を持つ身体とを抱えて、この社会に(一過性的に)関わっている」(「アフォーダンスと多様性」より)
a 現在進行形としての脳の働き(t = 0)
b 限りある寿命をもつ身体(t = life)
ここでAとB、aとb二種類の対比をじっくり眺めてみると、「主格」は脳の働きによって生じ、「環境」は身体によって支えられるから、
A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き
B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き
という連動がみえてくる。勿論後者(B – b)は脳を使わないということではなく、脳を身体機能と一体化させて使うという意味だ。医学博士ア谷博征氏は、その著書「グズな大脳思考、デキる内臓思考」(明日香出版社)のなかで脳と身体について次のように指摘しておられる。
『 さて、ここでもう一度、脳の階層を整理しましょう。
第一の脳:内臓
生命の根源的な欲求をつかさどります。
第二の脳:脳幹・大脳旧皮質
内臓の動きと強い関係を持つ「内臓」脳です。
第三の脳:大脳新皮質
土台である第一の脳(内臓)の欲求を満たすために、第二の脳の感情・情動を利用して発達していく部分です。
私たちの内臓が、全てのベースになっているわけです。
さて、私が命名した「内臓思考」。これは、内臓そしてそれに密接につながっている脳幹・大脳旧皮質から出てくるものです。階層でいうと、第一と第二の脳です。
解剖学的には内臓−脳幹・大脳旧皮質に存在する力です。ここが、自然を感知できるところです。
大脳新皮質に頼る「大脳思考」では、自然を細かく分析することはできても、自然全体を把握することはできません。(後略)』(同書105−107ページ)
「脳を身体機能と一体化させて使う」ことは、ア谷氏の指摘する「内臓思考」に対応する。「第二の脳の感情と情動」という表現は、「第二の脳の感性」とした方が正確かもしれないが、感性の強い影響下にある言語思考をも含めて、第二の脳の働きと理解しておきたい。
文化人類学者の川田順造氏は、その著書「もうひとつの日本への旅」(中央公論新社)の中で、技術文化の嗜好性において、日本人には「二重の意味での人間依存性」があり、西洋人には「二重の意味での人間非依存性」があると指摘されている。少し長くなるがその部分を引用しよう。
『 技術文化の嗜好性に見る日本と西洋
ここで、すこし道草になるが、日本の「二重の意味での人間依存性」に対する、西洋の「二重の意味での人間非依存性」について、簡単に述べておこう。
「二重の意味での人間依存性」というときの「二重」の第一は、複雑な道具立てや装置に頼らず、人間の巧みさによって、道具なしか、簡単な道具を多様に使って作業することだ。素足で鞴を漕いだり作業対象を固定するとか、二本の棒切れに過ぎない箸を、使う人の巧みさで、多機能に使い分けるとか、三十六ページにも触れた、フランスのものに比べて道具としてははるかに簡単で、着脱自在な天秤棒とかは、その例だ。
日本の技術文化の志向性に見られる「二重の意味での人間依存性」の第二は、より良い結果を得るために、尽力を惜しみなく投入することだ。朝は霜を踏んで野良に行き、夕べは星をいただいて帰るといわれた日本農民の勤勉ぶり、残業をものともしない現代の産業戦士の勤勉にもその異端が窺えるだろう。
これに対して、西洋の「二重の意味での人間非依存性」はどうか。いま述べた日本の例と対比させていえば、第一の人間非依存性は、個人の巧みさに頼らず、誰がやっても同じようなよい結果が得られるように道具ないし装置を工夫すること、第二の人間非依存性は、できるだけ人力を省き、畜力や風水力など人間以外のエネルギーを利用して、より大きな結果を得ることだ。(後略)」(同書74ページ)
川田氏が指摘される日本の「二重の意味での人間依存性」は、私の指摘する、日本語的発想が身体の働きを通してP.T.的活動に優れているということに対応し、西洋の「二重の意味での人間非依存性」は、英語的発想が脳(特に大脳新皮質)の働きを通してR.P.的活動に優れていることに対応すると思われる。
A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き
B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き
という図式は、会社経営が何故AとBを同時に備えていなければならないかということに対する、別の視点からの傍証でもある。それは、人の集まりであるところの会社も一つの有機体であれば、組織には脳と身体機能の両方が必要ということなのだ。
この、「主格中心」=脳の働き、「環境中心」=身体の働きという対比から、今後また様々な考察を展開していきたい。しかし今回のところは、「ホームズとワトソン」に登場した杉山右京がしばしば「頭脳派」と呼ばれ、亀山薫が「体力派」と呼ばれることを思い出しておくに留めよう。
この記事へのコメント
コメントを書く