アロマに続いて眠りの研究について。この夏『脳は眠りで大進化する』上田泰己著(文春新書)という本を面白く読んだ。読むきっかけとなった新聞書評によって内容を紹介しよう。
(引用開始)
熱帯夜が続き、寝不足になりがちなこの頃だ。よい睡眠が健全な心身を支えていることは確かだし、多くの生きものたちが寝ているので、これは生きるために不可欠なものだろう。ところが、研究対象としてはなかなかの難物で、近年やっとその意味とメカニズムが解け始めたところなのだ。著者はその最先端を走る研究者の一人である。本書を紹介したいと思ったのは、優れた研究者の現場がていねいに語られているからである。私たちが持つ、ほぼ24時間周期の体内時計は、各臓器にあって時計遺伝子をもつ時計細胞と、それを調整する脳の中枢時計から成る。この時計は、化学反応で動いているのに、温度によって周期が変わらないのはなぜか。ここで著者は、温度変化に強いリン酸化酵素が時計タンパク質に印をつけたりはずしたりしているからだということを見つける。
こうしてリズム・サイクルの基本が見えたので、「難攻不落の睡眠研究に立ち向かう」のだが、その戦略がユニークだ。遺伝子などの分子、細胞、個体(臓器)の間をつないだ理解には、個体をつくる全細胞のカタログが必要と考え、細胞の透明化に挑戦する。それには「アミノアルコール」処理が有効と分かるまでに、いかほどの物質を調べたことか。透明マウスの写真を見た時の驚きを思い出す。これで全細胞が観察できる目処(めど)がついた。更に、遺伝子改変を交配なしに一世代で検証できる技術、多くの遺伝子を一度に破壊できる技術も開発し、実験のスピードを百倍以上あげた。もう一つ、脳外科手術せずに寝息のパターンで推認時間を測定する装置もつくっている。
著者は、研究のいちばんの難しさは「難しさを分解すること」だと書く。開発した技術はどれも、根本からの問題解決に不可欠な分解なのだ。これは科学研究に止(とど)まらない大事な視点ではないだろうか。
睡眠の制御機構は三つある。体内時計による制御、危険と関わるエマージェンシー制御、そして恒常性制御である。一定量の睡眠時間を確保するための恒常性制御は、「疲れたら眠る」という単純な仕組みに見えながら、まったく答えの見えていない再難問なのだ。
これまでの研究で注目されてきた睡眠物質は、エマージェンシーの時に必要なのであって、それ以外の睡眠には寄与していないことが見えてきた。ここで著者は、逆に覚醒物質があるのではないかと発想を転換し、神経が興奮すると細胞内に入ってくるカルシウムに注目する。陽イオンであるカルシウムは、神経細胞を活性化する一方、カリウムを外へ出すはたらきをして、神経細胞をなだめもするのだ。実験の結果、カルシウムに引き金を引かれてリン酸化酵素(体内時計でも活躍した)が睡眠を制御していることが分かってくる。このメカニズムのレム、ノンレム睡眠との関わりなどを調べていくうちに、「睡眠時のほうが覚醒時に比べて神経細胞同士のつながりを強くする」ことが見えてきて、覚醒時は探し、睡眠時は覚えるのではないかという考えが生まれる。これが「シナプスはノンレム睡眠とレム睡眠のサイクルで進化しうる」という仮説につながっていくのだ。独自の発想と自ら開発した新技術を駆使しての本質解明。難問を抱えた現代社会が学ぶ問題解決法としても非常に興味深い。(中村桂子)
(引用終了)
<毎日新聞 8/17/2024>
参考までに本書の目次も掲げておこう。
第1章 私たちの体にひそむ時計の機能と睡眠
第2章 生命科学のパラダイムシフトと新世代の研究
第3章 細胞から個体へ――睡眠研究前夜の技術開発
第4章 難攻不落の睡眠研究に立ち向かう
第5章 睡眠の謎を解明していく
第6章 試験管の中に見えた睡眠中の「脳の大進化」
第7章 「健康な睡眠」の提案
第8章 人間をミクロに摑んでマクロに考える
眠りについての知識は勿論だが、この本でとくに興味深かったのは以下の二点。
1.システムと個性
おもに第2章で展開される議論だが、2003年にヒトゲノムの解読完了が宣言されたことを受けて、それ以降の生命科学が工学的な「システム」を指向する中、「個性」に注目する必要性に著者が気付くところ。システム指向を推し進めると、果てはAIによる人工生命といった研究に行きつくのだろうが、著者はその前に一旦立ち止まり、環境と細部の働きに目を向ける。そして、全体と細部を往還しながら考える事の重要性に気付く。これは複眼主義の対比、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)
でいうところの、A側とB側のバランス、流れを橋の上から見るオイラー的視点とボートの上で考えるラグランジュ的視点との往復、といった考え方に近い。このブログで提唱しているモノコト・シフトでいえば、<香り>同様、<眠り>もコトであり、B側と親和性が強い。それもあって、科学者であるとともに日本人であるところの上田氏は、A側の俯瞰とB側の体感、その両方を往還しながら考えることの重要性に思い至ったのではなかろうか。
2.脳と心臓の働きの類似性
こちらは第8章で語られる話。心臓の心筋細胞が拍動して血液のフローを制御しているのと同じように、脳の神経細胞が振動して脳脊髄液のフローを制御しているのではないか、という仮説である。脳については以前、
「内因性の賦活」
「内因性の賦活 II」
の項などで、ニューロン・ネットワーク以外の高電子密度層の働きについて書いたが、今回眠りの研究の中からも、脳におけるニューロン・ネットワーク以外の仕組みが見えてきたことはとても意義深いと思う。今後の研究に大いに期待したい。
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