ここまで、「モノとコトの間」、「コトの制御」と、
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話者から見て、
動きが見えない時空=モノ
動きが見える時空=コト
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という定義について書いてきたが、この定義のsignificanceについて「後期近代」という時代背景に即して考えを展開してみたい。
西洋で発祥した「近代」の特徴の一つに、「合理主義」というものがあった。「後期近代」に入り、この合理主義はさらに「デジタル・AIの活用」へと進展してきているが、一方、合理主義の一側面である「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”に行き詰まりを感じ、動きのある“コト”を大切にする生き方・考え方への関心も高まってきている(モノコト・シフト)。そういう時代に上の定義は何を示唆するのだろうか。
近代の合理主義は、時間と空間について「宇宙は唯一無二の空間であり、そこには均一の時間が過去から未来へ滔々と流れている」という考え方を前提としている。複眼主義の「世界は無数の時空の入れ子構造としてある」という考え方を前提としていない。宇宙で起こるコトにはかならず原因となるモノがあり、コトは「モノが時間の流れに沿って変化する現象」であると考える。だからコトの原因を探るには、それを構成するモノを解析すればよい(還元主義)。多くの場合、コトの要因には複雑に絡まったモノが多数存在するから、解明には時間もかかるしそれを探る装置も巨大なものになる。
こういった還元主義的思考に疑問が呈されるようになったのは、20世紀後半、カオス理論や複雑系と呼ばれる科学思考(非線形科学)が出てきてからのことだと思う。その前から熱力学などの分野ではコトの複雑さが指摘されてはきたけれど。
「後期近代」に入り、科学界はようやく、還元主義をさらに突き詰める方向(デジタル・AIの活用)と、“コト”をコトとして捉えようとする方向(非還元主義的思考)とに分かれてきた。しかし「宇宙は唯一無二の空間であり、そこには均一の時間が過去から未来へ滔々と流れている」という前提はまだ崩れていない。
「西洋近代」を支えるのはキリスト教精神であり、世界の出来事が均一時空に存在する“モノ”の作用であるとすれば、その背後に(モノを操作する)万能の人格神を想定しても科学と矛盾しない。キリスト教と還元主義の親和性。デジタル・AIの活用の先端分野たる「遺伝子操作」などはぎりぎり神の領域に近づくけれど、還元主義者たちは神の操作範囲を後退させて行為を正当化するだろう。
「宇宙は唯一無二の空間であり、そこには均一の時間が過去から未来へ滔々と流れている」という前提が還元主義的思考を生んだ。しかし、還元主義的思考によって“コト”は解明できない。ヒトの遺伝子をすべて同定しても生命の本質は解明できない。還元主義によって出来るのは、「工学的」に“コト”の効率を上げたり下げたりすることまで。それによって生活は便利になるが、自然環境は破壊されつつある。それが、モノコト・シフト、“モノ”よりも“コト”を大切にする生き方・考え方への関心の高まりを生んだ。
複眼主義では、
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話者から見て、
動きが見えない時空=モノ
動きが見える時空=コト
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という定義及び「世界はそれら無数の時空の入れ子構造としてある」という認識を前提に、コトのインパクトは、その時空の持つエネルギーの大きさと、話者とその時空との近接度によると考える。コトには動きの種となる環境はあるが、コトの原因にモノが存在するとは考えない。だから禍事に臨んで重要なのはその制御の方法であり、探しても見つからないモノを取り押さえようとすることではないという話になるわけだ。
モノコト・シフトの時代を正しく捉えるためには、コトの原因にモノを探す還元主義的思考から離れ、コトをコトとして扱う複眼主義的思考への転換が必要なのだ。複眼主義の定義のsignificanceは、「後期近代」の今こそ見えてくるはずだ。
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