『建築家の解体』松村淳著(ちくま新書)という本に導かれて、
「界とハビトゥス」(7/28/2022)
「空間(space)と場所(place)」(7/29/2022)
と綴ってきた。今回は同書によって、これからの建築家の在り方、その界とハビトゥスについて考えてみたい。
まず同書から後期近代の特徴である「専門家システム」について引用する。
(引用開始)
(前略)後期近代という時代区分において重要なものは、一つは「空間」と「場所」をめぐる議論であり、二つ目は専門家(プロフェッション)についての議論である。
後期近代論において、専門家は重要な働きを担う。建築家も専門家の一種であるが、建築家の専門家としての在り方が、後期近代という時代の中で大きく変容した。
産業社会のみならず、我々の生活世界を覆い尽くす高度に発達したインフラは、匿名的(アノニマス)な専門家システムによって駆動される。建築もまた、そうしたインフラの一つとして都市に配置される。それはもはや、個人の建築家の手に負えるものではない。
(引用終了)
<同書 217ページ>
松村氏は、こうした現状において、これからの建築家の在り方は、「場所」に根ざした顔の見える専門家として、local communityの人々と二人三脚で仕事をしてゆくことではないかと述べる。空き家をリノベーションしたり、みんなの居場所を作ったり。氏はこうした建築家を「街場の建築家」と呼ぶ。
(引用開始)
後期近代社会は、専門家によって設計・運営される「空間」が主流を占めるが、同時に「場所」も勃興してくる。個人名で活動する建築家にとって、「場所」こそが、職能を発揮する場になっている。「場所」において必要とされるのは「顔の見える専門家」である。「場所」の再生と建築家が交差するとき、「顔の見える専門家」として建築家の職能を拡張する契機が現れる。(中略)
建築家という職能は属人的であるため、後期近代における専門家システムとは相性が悪い。個人の建築家がどんどん公共建築の設計から追いやられていくのは無理もない話であるが、建築は一九六〇年代以降、ずっとそうした状況に抗い続けてきた。
システムが私たちの生活世界にまで浸潤してくることによって、かろうじて残されていた個人の住宅という建築家の仕事も、住宅メーカーやマンションデベロッパーに委ねられることが増えた。
しかし、近年のまちづくりや、リノベーションのシーンは、そうしたシステムの「外側」で盛り上がっている。そこには個人名と顔を取り戻した建築家が、生き生きと活動している。
本書ではそうした顔を取り戻した建築家を「街場の建築家」と呼んでいるが、彼らがシステムの「外側」の生活世界を構築するキーマンとなっていくのは間違いないだろう。
こうした活動は今後、さらに活性化していくとみているが、もしかしたら、そうした活動もやがてシステムに飲み込まれていくかもしれないという懸念もある。
(引用終了)
<同書 292−297ページ>
このブログでは、「建築士という仕事」や「建築について」の項で、スモールビジネスとしての建築について語ってきたが、それは松村氏のいう「システムの外側の仕事」というコンセプトと重なると思う。建築だけでなく他の職種でも、規模が小さく現場への対応力が強いスモールビジネスは、これからの時代に適合的だ。それにしても「街場の建築家」はスモールビジネスの有力選手であろう。
さて、上記引用文の最後に松村氏は、「もしかしたら、そうした活動もやがてシステムに飲み込まれていくかもしれない」との懸念を述べられている。今の「専門家システム」という界とハビトゥスの支配者は、住宅建築では住宅メーカーやマンションデベロッパーの資本家・経営者たちだろうが、彼らに飲み込まれないために街場の建築家はどうすればよいのか。
それを考えるにはまず、建築界よりも上位にある、後期近代社会そのものの界とハビトゥスを研究する必要があろう。なぜなら、ある「界」におけるその上位・下位(の界)には、一定に共通する特色があると思うからだ。<スポーツ界>の下位分化<角界(相撲界)><野球界><サッカー界>には独自の仕組みや規則性があるにしても、「身体運動による自己表現」といった一定に共通する特色がある。日本においてはさしあたり「界とハビトゥス」の項でみた「戦後日本の無意識」をよく研究すべきだ。
ここで復習しておくと、<界>とは、社会の中に存在する集団のことで、各界は相対的に自立している。それぞれの界には固有の秩序や規範、動的なメカニズムが存在している。<ハビトゥス>とは、界において行為者が身に付ける暗黙の知の体系で、その界において個人がほぼ自動的に行っている価値判断やモノの見方を指す。
「集団の無意識」の項では戦後日本の無意識を、
(1)家族類型
(2)平和憲法
(3)言語特性
(4)歴史認識
とに分けてみたが、建築の界とハビトゥスはとくに(1)との関りが強いのではないだろうか。
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(1)家族類型
戦後日本の家族制度は、占領軍によってそれまでの直系家族からアメリカ的な絶対核家族に変更された。しかし核家族の価値観は未消化・不十分で、人々のメンタルには、それまでの直系家族的価値観が残っている。儒教的価値観、組織における先輩・後輩関係の重要視、妻よりも夫の不倫への世間的寛容、老後の親の面倒をみる、先祖代々の墓を継承する、などが依然として長男(もしくは長女)の仕事とされているケースなど。しかし直系家族にあった家長の権威と権力は、制度的には消滅している。夢の形象には無能な二世議員、三世議員たちの姿が相応しいだろう。
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今の住宅メーカーやマンションデベロッパーの界とハビトゥスには、この直系家族的なメンタルが強い筈。街場の建築家は、(直系家族ではなく)核家族や新しい家族の価値観を良く消化・吸収しておく必要があると思う。その新しい価値観に基づいた界とハビトゥスがどのような性質ものであるかについては、また項を改めて考えてみたい。
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