『建築家の解体』村松淳著(ちくま新書)という本を面白く読んだ。社会学者による建築家の解題で、フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(1930-2002)の<界>や<ハビトゥス>、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズ(1938−)の<後期近代>や<空間(space)と場所(place)>といった概念を援用し、日本の建築家が果たしてきた社会的役割を概観、後期近代における建築家の職業像を探る内容となっている。松村氏については、去年「後期近代」の項で、氏の前著『建築家として生きる』(晃洋書房)から<後期近代>について引用させてもらった。今回はブルデューの<界>と<ハビトゥス>について、『建築家の解体』から引用したい。
<界>とは、社会の中に存在する集団のことで、各界は相対的に自立している。それぞれの界には固有の秩序や規範、動的なメカニズムが存在している。
(引用開始)
近代社会は歴史的な機能分化の過程で、様々な界を生み出していった。政治界や経済界、スポーツ界などである。こうした界はさらに下位分化し、様々な下位界を生み出している。例えばスポーツ界が下位分化したものとして、<角界(相撲界)><野球界><サッカー界>などが生み出されている。ここで重要なことは、すべての下位界は独自の仕組み、規則と規則性を有している、ということであり、他の界からの影響を受けることのない、相対的な自律性を保っているということである。それぞれの界には、そこを取り仕切っている者がいる。そしてそれぞれの界に入るためには、そうした権力者・支配者が課してくる基準を満たす必要があるのだ。
さらに界において、位置(position)も重要である。界の内部の者たち(行為者)は、それぞれの位置に収まっている。その位置は何によって決まるのだろうか。答えは、それぞれの行為者が持っている<資本>の総量と種類による。資本とはあとで、より詳しく言及するが、芸能界に所属している芸能人であれば、ルックスや歌唱力、演技力など、その界で役に立ちそうな資質のことである。(中略)
界で進行している闘争とは、その界固有の資本の分布構造を守り通すか、ひっくり返すかの闘いである。資本を独占している者たちはそれを守り通そうとする戦略を打ち立てる。一方で、資本を持たない新参者は、それをひっくり返す転覆の戦略を練るのである。
(引用終了)
<同書 40−41ページ>
<ハビトゥス>とは、界において行為者が身に付ける暗黙の知の体系で、その界において個人がほぼ自動的に行っている価値判断やモノの見方を指す。
(引用開始)
また、ハビトゥスは、単独で使用できる概念ではなく、界や資本といった他の重要な概念と組み合わせて考えるべきものである。ハビトゥスとその他の概念との関係性について理解するために社会学者の磯直樹による整理を確認してみたい。
ハビトゥスは特定の界の中で、その規則と特定の作用を受け続ける。一方で、ある界において行為者がどのように振舞うかは、ハビトゥスの作用に大きく依存するのである。界における行為者の客観的な位置関係は資本の種類と総量によって規定されるが、実際に界の中でどのように闘争やゲームを行えるかは、どのようなハビトゥスを有しているかによって異なる。これが、界の内部とハビトゥスの関係である。
(引用終了)
<同書 45−46ページ>
この<界>と<ハビトゥス>、界の「社会の中に存在する集団」という定義を上位統合すると、「世界の中に存在する社会集団」となり、日本国民(nation)を「列島に住む日本語を母語とする集団」という一つの<界>とみることができる。その場合、日本国民という界(日本界?)の<ハビトゥス>は、「界において行為者が身に付ける暗黙の知の体系で、その界において個人がほぼ自動的に行っている価値判断やモノの見方を指す」わけだから、「集団の無意識」の項でみた戦後日本の無意識と重なるように思う。
さて、日本という界を取り仕切っている者は誰か。それは「国家理念の実現」の項でみた米軍と官僚だろう。村松氏は『建築家の解体』の中で、後期近代において、それまであった建築家の界とハビトゥスは、自由に職能を展開していくうえで足かせとなる可能性があるとし、「街場の建築家」というあたらしい建築家像を提出しておられる。日本国民という界とハビトゥスにおいても、後期近代を生き延びるには、新しい国民像が必要になってくると思う。今の界とハビトゥスをよく研究し、次の展開に備えたい。
この記事へのコメント
コメントを書く