書類を整理していたら、古い新聞コラムの切り抜きが出てきた。タイトルは「禁止事項を作る」、執筆は分子生物学者福岡伸一氏。
(引用開始)
川本三郎さん。ひそかに尊敬する文筆家である。彼がこんなことを書いていた。「しない」ことを増やすことで身を律する。新作映画の星取表みたいな仕事を受けない。行きつけの店紹介や書斎拝見といった取材は断る。書くことでも禁止事項を作る。男の美学、独断と偏見、生きざま、癒し。そのような言葉を使わない。「僕」を主語にしない。
抑制が利いた、それでいてあたたかな文章。秘密はこんなところにあるのだ。全く及ばないけれど、私も自ら決めていることがある。「うまく言えないのだが」「言葉にできないけれど」「筆舌につくしがたい」そういう言い回しを決して用いないようにする。それが私の禁止事項である。もちろんこの世界にはうまく言葉につくしがたいことがいっぱいある。それでもできるだけそこに接近し、それをすくいあげ、そして光をあてる言葉を求めるのが、私の仕事だと思う。だから言葉を探す。
たとえば、私はフェルメールの絵が好きだ。美しいと思う。それは何に由来するのだろう。いろんな場所へ行き、たくさんの作品を見た。でもなかなかわからなかった。あるときふと思った。絵の中にあるのは、移ろいゆくものをその一瞬だけ、とめてみたいという願いなのだ。そしてそこにとどめられたものは凍結された時間ではなく、再び動きだそうとする予感である。
それは何かに似ている。微分という言葉が浮かんできた。動きを記述しようと数学者たちが考え出した微分法。フェルメールの思いは、同時代のニュートンの夢と同じ願いだったのだ。私はフェルメールを少しだけ語れるようになった気がした。
(引用終了)
<日経新聞(「あすへの話題」)7/17/2008>
フェルメールは17世紀オランダの画家。福岡氏のこの画家への想いはやがて『フェルメール 光の王国』(木楽舎)という美しい本に結実する。この本ついては以前「贅沢な週末」の項で触れたことがある。川本氏については「荷風を読む」の項で氏の『老いの荷風』(白水社)という本を紹介した。
禁止事項を作る意義について考えてみよう。何かを為すとは、その方向へ流れを作ることであり、それを続けていると、逆を為すことが難しくなる。自分の意に染まないことでも、繰り返しているとそれを止めることが難しくなる。つまり癖が付くということだ。台が傾斜して、上のものが転げ落ちていく感じか。禁止事項を作るというのは、そういう方向への流れを作り出さないということなのである。
このブログで私が気をつけているのは、かなり考えが固まってからでないと記事をアップしないということ。確信が持てるようになるまで待つということだ。間違いもあってよいが、それに気づいたらすぐに修正する。間違った方向への流れを作らない。
もう一歩進めて考えると、何かを“する”ということは、そのとき、他のすべてを“しない”ことと同義でもある。何かを食べるとは、そのとき他の何ものをも食べないということ。何処かへ行くとは、そのとき他の処へ行かない、行けないということ。短い人生、有意義に活動するには、この行動選択の重さに思いを致すことが大事だと思う。
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