歴史には正史と外史とがある。時の権力勝者の綴ったものが正史(表史)、敗者の綴ったものが外史(裏史)である。このブログでは、
「歴史の表と裏」
「古代史の表と裏」
「古代史の表と裏 II」
などの項で、とくに裏史を論じた書物に光を当ててきた。現代社会を考えるとき、外史を探ることで、正史だけだと分からない事の繋がりが見えてくることが多いからだ。
去年「田沼意次の時代」の項で、徳川幕府崩壊の内的理由、
〔1〕武士のサラリーマン化
〔2〕「家(イエ)」システムの形骸化
〔3〕幕府正当性の理論付けが弱かった
〔4〕鎖国により海外情報や交易が限定的
〔5〕AとBのバランス悪し
について、田沼の開明政策によって〔4〕に変化が生じた(海外情報が増えた)にもかかわらず、それが〔1〕から〔3〕、〔5〕に影響を与えなかったのは何故かと問い、“変化のボリュームが小さすぎて転移点に達しなかったということなのだろうが、この時代のことをもうすこし微細に研究してみたい”と書いた。しかしこのとき私の念頭には、田沼時代だけではなく、〔3〕の根本理由について、さらに時代を遡って考えてみたいという気持ちがあった。
〔3〕については、「内的要因と外的要因」の項で、幕府による泰平が盤石だったから理論付けが必要とされなかった、という説を紹介したものの、家康が儒教と神道両方を統治思想に導入した(天命と天皇の両方を正当性の根拠に組み込んだ)ことは、やがて、崎門学と国学において「至高」=「天皇」の一点においてシンクロし、幕末の尊王倒幕思想として結実、明治維新以降さらに「国家神道」に利用された(そしてやがて日本を破滅に導いた)わけだから、その理由をもっとよく研究する必要があると考えたのだ。
家康はなぜ、儒教と神道両方を統治思想に導入したのか、「天命」と「天皇」の両方を正当性の根拠に組み込んでしまったのか。その前の秀吉はなぜ、鎌倉・室町時代とは明らかに一線を画す信長の「預治思想」を後退させ、朝廷と融和の道を選んだのか。秀吉が唱えた(そして家康も追従した)「神国日本」論は、キリスト教圧力回避のためだったというが、本当にそれだけの理由で、直前まで仕えていた天下人(信長)の統治思想を捨て去ることができただろうか。
このような疑問について様々な本を読み、その結果を『百花深処』<本能寺の変>と<「神国日本」論 II>の二項にまとめた。内容はそちらをお読みいただきたいが、今のところこの仮説が答えとして一番しっくりくる。このテーマは、『国体論』白井聡著(集英社新書)などが扱う現代社会の問題と、遠く時を隔てて繋がっていると思う。明治政府が作り出した国体(天皇の国民)は、秀吉と家康の裏史があってはじめて成立し得たのではないか。正史だけで考えると、天皇と政治権力との連結は、列島古代から戦前まで(強弱はあれ)連綿と続いたように錯覚するが、外史を辿るとそうではないことが解ってくる。「プライムアーティストとしての天皇」という考え方は、そういう新しい歴史認識と整合的である。さらに研究を進めたい。
教科書に載っているのは今の権力者(学問的権威者)が認める正史(通説ともいう)。それを他人に押し付けようとする人がいる。一方、在野で外史を訴え続ける人がいる。我々は、両方を冷静に見比べ、自分で最も合理的だと思う解釈(事の繋がり)を選択すべきだ。そして常に新しい知見によって修正をかけてゆくこと。裏史を扱う書物は玉成混交で見当違いも多い。視野の先がどこまで届いているかが判断基準。一般論として最新刊の方が良いが、古い本の方がより遠くまで視線を届かせている場合もある。
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