日本の土地問題に関して、以前「建築自由と建築不自由」の項で、“日本では、近代化、復興と成長を推し進めるために都市計画法が存在したので、土地所有も建築自由のままできてしまった”と書き、「対抗要件と成立要件」の項で、この建築自由の考え方の基は、明治政府が民法を制定するにあたり手本としたフランスの民法が、土地所有権者の自由を尊重するものだったことにあるらしいと記した。ここで「建築自由」というのは、土地は本来的に所有者の自由になるものだという考え方を指す。それに対して「建築不自由」とは、土地所有権はもともと制限されているもの、義務を伴うものであるという(ドイツ法の)考え方だ。
今の日本はこの「建築自由」、土地は利用よりも所有が優先するという考え方が蔓延し、廃屋や空き地の第三者有効利用がなかなか進まない。人口が減って私有地の約20%が所有者不明となっているにもかかわらず、行政はそれを利用するための有効な手が打てない。
それでは、明治時代以前の土地所有はどうなっていたのか。『百姓の力』渡辺尚志著(角川ソフィア文庫)によって、一般的な土地所有のあり方を見てみたい。「おわりに」から引用する。
(引用開始)
江戸時代における百姓の耕地・屋敷地の所有は、近代的土地所有とは異なる性質をもっていました。まず、土地は幕府・領主との重層的関係のもとにあり、絶対的・排他的所有ではありませんでした。また、契約文書の文言より慣行が優先される場合があり、「契約の絶対性」が貫かれていませんでした。所有の主体の多くは家・村落共同体のような集団であり、個人的所有権は弱かったという点など、近代・現代の所有とは大きく違う点が少なくなかったのです。江戸時代後期には、地主・豪農層を中心に、近代的土地所有につながる考え方も芽生えていましたが、いまだ支配的にはなりえませんでした。
日本における近代的土地所有権は、明治政府により、上から設定されたという性格が強いものでした。江戸時代の土地所有関係に対して、地券交付・地租改正を通じた近代的土地所有権の実現は、甚大な影響をおよぼしました。個人の排他的な土地所有権を認定することによって、村内の土地各種の有機的な結びつきを切断し、従来の個別所有地のもつ共同体的性格、「村の土地は村のもの」を否定したのです。
地租改正の実施と、明治一六(一八八三)年以降に続発した困民党事件をはじめとする負債農民騒擾の鎮静化を経て、土地所有のあり方は大きく変わりました。困民党事件後も、農民の間から、近世的な土地所有意識がすっかり消えてしまったわけではありません。ただ、それは弱体化し、近代的な土地所有観念が優勢になったことも否定できません。その意味で、地租改正と困民党事件は、農民の土地所有に関して、近世と近代を分かつ大きな画期でした。以降、明治二〇(一八八七)年の登記法施行、同二二年の地券廃止・土地台帳規則制定と、近代的土地所有は急激に整備されていったのです。
(引用終了)
<同書 239−240ページ(フリガナ省略)>
江戸時代の土地所有は、あきらかに「建築不自由」、土地所有権はもともと制限されているもの、義務を伴うものであるという考え方だ。
明治新政府は、西洋に追い付け追い越せというスローガンの下、国に民法というものがあること自体が大事で、それまでの考え方との整合性は深く考えなかったのではないか。そのうちに手直しすればよいと思っていたのかもしれない。しかし、戦争に次ぐ戦争、さらに大敗戦と続く中、その機会はついに訪れなかった。
「建築自由」は公よりも私を優先する。実験的な面白い建物が都市にできるのは良いが、環境保護や景観への配慮は退く。建てたものは古びるから責任者たちがいなくなれば廃屋や廃墟が増える。統治の問題。同書の「おわりに」から最後の部分を引用しよう。
(引用開始)
現在、私的欲望の野放図な解放は、生態系の破壊や資源の枯渇のみならず、人類の生存まで脅かすにいたりました。転じて江戸時代を見れば、村落共同体は村域内のすみずみまで責任をもち、結果として環境保護や資源の保全という機能を担っていました。つまり、村は土地の共同所有にもとづき、村人の生を担保していたのです。
これは私たちの先祖の貴重な達成として、繰り返し思い起こされるべきでしょう。
(引用終了)
<同書 241ページ>
これからの時代、先人の知恵に学ぶところは多い筈。『百姓の力』には、土地所有以外にも共同体のあり方がさまざま紹介されていて示唆に富む。副題は「江戸時代から見える日本」。一読をお勧めしたい。
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