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関東学

2018年06月04日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 『日本史への挑戦』森浩一・網野善彦共著(ちくま学芸文庫)という本がある。副題は“「関東学」の創造をめざして”。第一刷発行は2008年12月(大巧社のハードカバー版発刊は2000年8月)。まず本の帯表紙、カバー裏表紙の紹介文を順に引用しよう。

(引用開始)

「関東」から日本を問う
いま明らかになる、その豊かな個性と潜在力

「関東」は、日本史のなかでは鄙の地として、奈良や京都のはるか遠景に置かれてきた。しかし、この地に鎌倉幕府が置かれ、江戸幕府が開かれたのは偶然ではなく、関東に大きな潜在力があったからである。――古代考古学と中世史の二人の碩学が、関東という地域社会の独自な発展の歴史を掘り起こし、日本列島の中で、また東アジア、アメリカ大陸との交流も視野に入れて、その豊かな個性を明らかにする。地理的な特徴、交通と交易、独自な産業、渡来人の文化、宗教の系譜など、さまざまな視点から関東の歴史を語り、新たな「関東学」の地平を開く、刺激的な対論。

(引用終了)

 先日「古代史の表と裏 II」の項で、“(1)は、古代海洋国家群を通過して、或いはさらに北から、時計回りに内陸に入ってきた遊牧民族を祖に持つと思われる”と書いたが、この本の中に、そのことにつながる叙述がある。ここで(1)とは、列島の父性(国家統治能力)の源泉、

(1)騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2)乗船文化=武士思想の一側面 
(3)漢字文化=律令体制の確立
(4)西洋文化=キリスト教と合理思想

における(1)騎馬文化を指す。

(引用開始)

 「関東学」の対象になる範囲は、さきほど網野さんからでましたので、そういう地域に、なにか地理的な特徴がないかと思って考えたのですが、東西だけではなく南北にずうっと続いているのが関東ではないでしょうか。(中略)
 それから北のほうは、山越えをすると新潟のほうへでて日本海沿岸につながります。このルートは非常に重要ではないかと思います。日本海の方面から入ってきた大陸の文化、主に朝鮮半島や華北の文化だと思うのですが、そういうものがたとえば群馬のあたりに影響する。だから群馬の高崎市にある綿貫観音山という前方後円墳からは、近畿ではみないような遺物が出ています。その一つに銅製の水瓶があるのですが、その発掘があってしばらくして、中国山西省の北斉の墓で、ほとんど同じものが出たのです。北朝につながる文物といってよいでしょう。その目でもう一度見直すと、観音山古墳には「三人童女」と俗に呼んでいる若い少女が三人、一つの楕円形の敷物に座っている埴輪があります。その埴輪をよく見ると、スカートの先端にレースのようなものがついている。これなどは北魏の雲崗の石窟の、横に描かれている供養者の女人のスカートに非常によく似ています。おそらく鮮卑族の女性の服装につながるものでしょう。そうすると観音山古墳というのは、日本列島のなかでのつながりはどうか。もちろん埴輪という目でみれば日本列島のなかのものになるけれども、埴輪に表現されている女性の衣装などを見た場合に、朝鮮半島を飛び越えて北魏につながるものも出てくるわけです。北魏は北から南下して大同から都を洛陽に移します。そして洛陽にきたら、みずから漢人との融合を政策としたとされている。だから北魏は日本の歴史ではあまり関係を評価されていません。ところが北魏のことを書いた『洛陽伽藍記』を読んでいたら、洛陽の都には扶桑館があって、「東夷」に人たちがそこに住んでいる、とある。一種のゲストハウスですね。国家対国家の正史にのこるような交渉があったかどうかはともかくとして、商人たちの交渉はあったと思いますね。そういうふうに北からの文化も入ってきます。だから群馬県には、渡来系の人たちが集中して住み、そのために一つの群をつくった多胡郡という地域があって、中国の六朝に流行した形の碑がたっています。この碑はそのルートからの影響をうけたものだろうと思います。
 つぎに、これは当然ですが、東西の道ですね。東の道はのちの白河関への道、そして海岸通りの勿来関、古くは菊田関とよばれていた関を通る道など数本の道があると思うけれども、エミシ(蝦夷)との交流の道になっていて、東ないし北から人びとや品物の入ったルートでしょうね。(中略)「蝦夷」といえば東北のことだと思い込んでいる文献学の人がいるように思いますし、考古学者にもそれに輪をかけてそう考えている人がいます。しかし七、八世紀、あるいは九世紀ころの文献を断片的にみても、エミシとの衝突をしているときもあれば、交易をしている状況もあるから、関東のなかでのエミシの問題やエミシとの交流については、いままであまり意識されていないと思います。これは大いにやらなくてはいけないでしょう。
 西方へのルートは、ふつう碓氷峠とか箱根や足柄からのルートを考えるけれども、それ以外にも、長野や山梨県から埼玉県や群馬県へ入る小さな山道は、相当多いですね。大きなルートは今日の中央線沿いや信越線沿いのルートですが、それ以外にも多くの道があります。何年か前、小渕前首相〔当時〕の出身地の群馬県中之条町によったら、天神や川端という弥生遺跡がほぼ今日の集落に重なるようにしてあるのを知りました。町の歴史館に陳列してある遺物を見ても、関東屈指の弥生集落で、このとき交通路の重要さを改めて感じました。中之条は西へ行くと鳥居峠をこして長野県の上田へ通じているし、草津を通って北方の新潟、つまり日本海方面にも行けるところなんです。弥生時代といっても、米の生産だけでなく、交通上の要地であることも富の一部だったのですね。
 そして長野には、高句麗系の王族を中心にした大集団が一つの郡(高井郡)をつくっています。高井郡には日本の積石塚の半分ぐらいは集中している。そういう集団のさらに拡張したというか、周囲に広まったのが、山梨の渡来系の集団です。山梨は二十年ほど前まで積石塚はないといわれていたけれど、最近は県の西部にたくさん見つかっています。以前は積石塚というのは、四国の石清尾山古墳群のような大きな板状の石を積んだものが連想されていたのでしょうね。さらに東京都の狛江市のあたりまで広がっていて、霊亀二年(七一六)に武蔵国に高麗郡ができたのです。
 長野県の高井郡には高井氏という、高句麗にあっても国王の家柄、一代目の朱蒙(鄒牟)という伝説上の始祖王の子孫を唱える、高句麗でも名門の一族が移ってきています。しかも有力な家来衆を従えてきていて、卦婁、後部、前部、下部、上部など高句麗での名前もずっと残っています。それが西から関東へくる道ぞいの状況です。

(引用終了)
<同書 61−73ページ(フリガナ及び注省略)>

長い引用になったが、越や北陸の古代海洋国家群を通過して、或いはもっと北方から、時計回りに関東に入ってくる遊牧民族の様子がよくわかる。『古代史の謎は「鉄」で解ける』長野正孝著(PHP新書)89ページにあるように、彼らは海を渡った後、先達が築いた川沿いの石墳墓や天空の星を道しるべに内陸へ移動しただろう。

 狩猟や騎馬文化、武士のルーツについての話もある。

(引用開始)

網野 もう一つは、関東について狩猟について考えてみたほうが良いと思います。さきほどもいったように将門と牧の関係も深かったといわれていますが、幕府成立直後に頼朝の行った富士の裾野での大規模な巻狩は、東国の王権の性格をよく示していますね。牧を背景にして馬を飼育し、騎馬で狩猟をやるわけです。これも関東の大事な文化要素です。
 前の話と関連させますと、『延喜式』には武蔵国の檜前馬牧をあげていますが、この牧は浅草付近ではなく、美里町駒衣付近に想定してよいでしょう。美里町の白石古墳群や後山王遺跡からは、立派な馬の埴輪が出土していて、馬牧がおかれたとしてもおかしくない環境です。(中略)
 埴輪にはかなり地域的特色があります。それをいままで地域的特色としてはとらえていません。つまり日本文化をいうときに、ならしてしまって、関東にはこういう例がある、群馬にはこういう例がある、とほかの土地にもあるかのように扱うけれども、これもきちっととらえ直さなければいけないですね。なぜ人物や馬の埴輪が関東に多いか。馬の埴輪なんて、全国の出土数の九割は関東に集中しているでしょう。(中略)
網野 狩猟はもちろん中世でも全国でやっていますし、九州も盛んだったと思いますが、関東の狩猟は非常に長く深い伝統があるのでしょうね。ですから頼朝が政権を樹立すると、まず最初に関東の原野で大規模な巻狩をやって大デモンストレーションをします。(中略)
 馬に乗って弓を射るということから考えると、明治や大正の時代に書かれた関東についての諸論文についての評価というか注目度が弱いといえます。たとえば、大正七年(一九一八)に鳥居龍蔵先生が雑誌『武蔵野』にお書きになった「武蔵野の高麗人(高句麗人)」、あれは短い文章ですが、みごとに問題提起をした論文ですね。武蔵野には高句麗系の高麗氏が住んでいる、そしてそれが武蔵野の武人になるという流れで書いています。そういう発想はその後あまりないのですね。十年ほど前に埼玉県行田市の酒巻一四号墳で、馬のおしりに旗を立てた埴輪、まるで高句麗の壁画に描かれている馬を埴輪にしたようなものが、初めて出ました。埴輪の旗ですから一センチぐらい分厚いものですけど、あのときに「大和に出ればおかしくないけれど、なぜ埼玉に出たのだろう」という新聞談話がありましたが、なぜ鳥居先生の有名な論文を読まずに発言したのかと。鳥居論文を読んでいれば、「鳥居龍蔵先生が大正時代に見通されたとおりのものが出ました」でよいわけでしょう。

(引用終了)
<同書 146−152ページ(フリガナ及び注省略)>

 関東学の対象はもちろん古代だけではない。この本には中世や近世に関する興味深い話も多く載っている。森氏の「文庫のためのあとがき」によるとこの対談が行われたのは1999年10月。いまでは両著者とも鬼籍に入られたが、このような地域学研究はその後も続いたのだろうか。いろいろと調べてみたい。

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posted by 茂木賛 at 14:18 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

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