この夏、『老いの荷風』川本三郎著(白水社)という本を読んだ。川本氏は永井壮吉(ペンネーム永井荷風)の研究家としてよく知られていて、『荷風と東京』(都市出版)、『荷風好日』(岩波書店)などの著書がある。本書は荷風の晩年の暮らしと作品に焦点を当てた評論集。本帯表紙には「第一人者の視点と筆さばき。『墨東綺譚』以降の作品を中心に、老いを生きる孤独な姿を描く」とある。まず新聞の書評を引用しよう。
(引用開始)
戦争に粘り強く否をとなえる文学
明治・大正・昭和にわたり活躍した文学者の永井荷風は、太平洋戦争後の一九五九年、七九才で亡くなった。
近代の作家としてずばぬけて長寿である。老いをゆたかに多彩に描いた。
不思議な人で、若い頃から老いに魅せられていた。フランス遊学から帰国した三十代の頃より、特徴的に老いをテーマとした。作品にぞくぞくと個性的な老人を登場させた。
たとえば『すみだ川』では、老いた遊び人がからだを張り、甥の純愛を守る。社会批判のエッセイにも、世相や政府に毒舌をふるう塩辛じいさんたちがいきいきと活躍する。
明らかに荷風は、老いを戦略的に活用した。その荷風が自身、真に老いたとき。さあ、どうなるか。いかに老いを生きるか。著者は注目する。
本書は、「昭和十九年(一九四四)、戦局が悪化してゆくなか、この年に六十五才になる荷風の偏奇館での独居生活は厳しさを増していた」とのことばで始まる。
荷風の老年には戦争が重くのしかかる。「独居高齢者」の少ない当時、配給はじめ全てがシングルの荷風には不利だった。加えて自宅の偏奇館は、昭和二十年三月の東京大空襲で燃えた。以来、各地をさまよう。
ここで荷風はダメになったとされる。戦後の文壇に復活したとはいえ、作品の実態は虚しいと酷評される。
著者はその文学史に待ったをかける。老後に四度も空襲に遭った荷風。PTSDを患っていたかもしれない。しかしなお現実の風速に食らいつく。空襲で焼け出された庶民を描く。つよい作家魂ではないか。
『問はずがたり』をはじめ「羊羹」「買出し」「にぎり飯」など戦後に発表された作品群は、なるほどかつてのエネルギーはないが、戦争の不条理にこづき回されて生きる庶民の生を無情に乾いた筆致でえぐる。その試みを評価する。
荷風への愛情がある。こまやかな目配りがある。何しろ著者は自身の人生の信念をこめ、長く荷風文学とともに生きてきた人。全編に、批評の神髄の愛情があたたかく薫る。
老荷風を支える人もいた。その群像劇も興味深い。戦下、荷風をつれて明石・岡山へと逃げた音楽家。荷風の暮らしを助けた鉄工所重役、男性ダンサー。荷風の死を発見した家政婦の「とよさん」。おかげで死体は腐らなかった。
「荷風のひかげのような小説」が、出征する若者に愛されたという事実はかくべつに感動的だ。
安岡章太郎は中国戦線で病み、病院にあった『墨東綺譚』をしみじみ読んだ。田村隆一が学徒出陣するさい、祖父は苦心して『墨東綺譚』を手に入れ、愛する孫に贈った。
胸を突かれる。老いた男がどぶの匂う場末の遊び場で、掃き溜めに鶴のごとき娼婦と出会い、たがいに一瞬の夢をみるはかない物語が、そんなにも深く戦いにおもむく若者の魂と触れ合っていたとは。
このくだりにも明らかだ。軟弱・退嬰的とされる荷風文学は、じつは戦争に滅法つよい。荷風の老いは、人間がくり返す戦いに、しずかに粘り強く否をとなえる。
老いと死を知る人間が、なぜ戦おうか。争おうか。代わりにつかの間の生の美しさ、楽しさを愛するのみ。戦いの虚無を笑うのみ。
荷風はまじめに自分の文学と人生を合致させようとした。自身も、人生のさいごの美を楽しむ老人として歩こうとした。うまくいかず、頭も足ももつれたが、死の前日まで務めた。そして独りで倒れた。
荷風文学と戦争。本書が提起するテーマは、これからの世紀にいよいよ切実である。
(引用終了)
<毎日新聞 6/25/2017(フリガナ省略)>
書評は近代文学研究者持田叙子さんによるもの。持田さんにも『朝寝の荷風』(人文書院)、『荷風へ、ようこそ』(慶應義塾大学出版社)といった著書がある。
『老いの荷風』には、荷風の「問はずがたり」「来訪者」「浮沈」「羊羹」「或夜」「にぎり飯」「心づくし」「買出し」「吾妻橋」といった、晩年の小説が紹介されている。あまり読む機会が得られないこれらの作品とその背景について知ることが出来るのは有難い。この本にはまた、『文人荷風抄』(高橋英雄著)、『荷風余話』(相磯凌霜著)、『わが荷風』(野口富士夫著)など、荷風に関した評論・随筆の書評もある。『文人荷風抄』については、以前「日本語の勁(つよ)さと弱さ」の項で触れたことがある。フランス語の弟子の話が印象的。書評には『荷風へ、ようこそ』(持田叙子著)も含まれている。持田さんの『朝寝の荷風』は既に読んでいたが、『荷風へ、ようこそ』(2009年出版)の方は読み逃していたのでさっそく入手した。
荷風は、複眼主義の対比、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
でいうと、A側発想の強い人だ。西洋語(英語・フランス語)に堪能で、作品には漢文脈の文体を駆使した(西洋と出会うまで日本のA側は長く漢文的発想が担っていた)。
「レトリックについて II」で述べたように、明治以降日本は、漢文を減らし平仮名を増やすことと、わかりやすい口語文で書くことを推進した。「漢文脈からの離脱」と「言文一致」である。その結果、日本語から漢文的発想が失われ、(英語的発想も上手く取り込めなかったから)日本語によるA側発想そのものが弱くなった。
そういう中、荷風は最後まで漢文的発想に拘った。その端正な文章を私は愛惜する。しかし、荷風は「公(Public)」としての発言を避け、芸事や花柳界といった「私(Private)」の世界に耽溺した。作家として、自らの身体の要求、感性に率直に耳を傾けることを優先した。A側の眼でB側を愛でることに力を注いだ。『百花深処』で言えば<隠者の系譜>に連なるが<反転同居の悟り>も会得していただろう。まさに書評にある“荷風はまじめに自分の文学と人生を合致させようとした。自身も、人生のさいごの美を楽しむ老人として歩こうとした。うまくいかず、頭も足ももつれたが、死の前日まで務めた。そして独りで倒れた”ということなのだが、何が彼をしてそのような生き方を選ばせたのか。さらに考えてみたい。
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