『白熱講義 これからの日本に都市計画は必要ですか』蓑原敬他共著(学芸出版社)という本を読み終えた。初版は2014年(平成26年)。共著者は若手の研究者たちで、「空き家問題 II」の項でその著書を紹介した野澤千絵さんも名を連ねている。本帯には「都市計画の現実、矛盾と展望/1930年代生まれの都市プランナーと、70年代生まれの若手による、問いと議論の応酬」とある。
本書前半(1部)は、蓑原氏がこれまでの歴史を振り返る「講義編」、後半(2部)は「演習編」、若手が蓑原氏に「都市計画にマスタープランは必要ですか?」などといろいろ質問し全員でディスカッションを行う形式。知識が増え、私のなかで空き家への関心は都市計画全般へと発展してきた。
これからの都市計画はどうあるべきか。「結」と題された(若手による)あとがきから引用したい。
(引用開始)
本書の1部の多くは、近代都市計画の発展過程のレビューに費やされている。ピーター・ホールの『明日の都市』などを導き手として、欧米における20世紀の近代都市計画の展開を理解し、かつ21世紀の現代都市計画がいかなる方向に走り出しているのかを見てきた。
このレビューは、第一に、本場の近代都市計画と日本の都市計画との距離をどう見るか、という問いを投げかけてくる。蓑原先生は、「日本の都市計画の歪みを歪みとしてみる」ことの重要性を常に強調されていた。近代都市計画の出発点が欧州では市場経済への危惧から来る協同組合主義であるのに対し、日本(をはじめ後進都市計画国)では、国家権力への集権化の流れの中でそれを強化するかたちで導入されたこと、1950年代以降にアメリカを中心に始まった地域科学や1960年代の政府の都市計画に対する市民からの問題提起であった民衆都市計画論などの社会科学の知見を取り込んだ都市計画の理論化は日本ではほとんどフォローされなかったことなど、日本の都市計画の歴史的な展開を冷静に見つめ直してみたのである。この世界標準の都市計画に対する日本の都市計画の歪みを矯正し、近代都市計画を完成させようというのが、こうしたレビューの一つのメッセージである。
しかし一方で、蓑原先生は歪みを矯正するという構図自体が有効性を失っているとも言う。本場の近代都市計画を支えてきたのは、都市社会の未来ビジョンとその実現に向けた合理的な道筋をデザインできるという信念に基づく設計主義であったが、その設計主義自体がすでに歴史的産物となっている。今や「計画」の理念を大きく転換し、現代都市計画へと脱皮させなければならないのである。
(引用終了)
<同書 251−252ページ>
これからの都市計画はこれまでのものとは一線を画する必要があるという。しかし、どう変えてゆくのか。
本書「演習編」において様々な問題提起がなされてはいるが、まだ明快な答えはないようだ。あとがきには「おそらく本書に明快な答えはない。それぞれの現場での具体的な課題への取り組みに答えを見つけ出していきたい」(252ページ)とある。ちなみに「演習編」の問題提起(とディスカッション)は、
問1<都市計画にマスタープランは必要ですか?>
問2<都市はなぜ面で計画するのですか?>
問3<コンパクトシティは暮らしやすい街になりますか?>
問4<都市はどのように縮小していくのでしょうか?>
問5<都市計画はなぜ人と自然の関係性から出発しないのですか?>
問6<計画よりもシミュレーションに徹すべきではないですか?>
問7<都市計画は「時間」にどう向き合っていくのでしょうか?>
といった内容である。
このブログでは、21世紀は「モノコト・シフト」の時代であると主張してきた。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲(greed)による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。
このブログで提唱している複眼主義の対比、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
でいえば、人々の気持ちがB側へ傾斜する時代といえる。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。
上の引用にある「本場の近代都市計画を支えてきたのは、都市社会の未来ビジョンとその実現に向けた合理的な道筋をデザインできるという信念に基づく設計主義であったが、その設計主義自体がすでに歴史的産物となっている」という論理。モノコト・シフトを前提とすると、ここはもうすこし丁寧な分析が必要だと思う。
21世紀を迎え「歴史的産物」になったのは、設計主義そのものではなく、20世紀の大量生産システムを前提とした「本場の近代都市計画」であって、「都市社会の未来ビジョンとその実現に向けた合理的な道筋をデザインできるという信念」そのものではないのではないか。つまり、21世紀には、モノコト・シフトを前提とした、「合理的な道筋」が求められるということではないだろうか。それを「新しい都市計画」と呼びたい。
都市計画は複眼主義でいうA側の仕事である。人々の気持ちがB側へ傾斜するからといって、理念や政策、計画といったA側の仕事が不必要になるわけではない。それでは、新しい都市計画の「合理的な道筋」は何を基礎に置いたら良いのだろう。
このブログでは以前、「新しい家族の枠組み」の項で、「モノコト・シフト」時代の家族の枠組みについて、
1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族
と纏めたことがある。参考までに、それ以前の「近代家族」の特徴は、
1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族への排除
8. 核家族
というものだった。
モノコト・シフト以前の近代都市計画は、「近代家族」の特徴を踏まえたものだった。それが歴史的遺物となった。とすると、新しい都市計画は、少なくとも「新しい家族の枠組み」を踏まえたものでなければならないと思う(勿論、「流域思想」、「庭園・芸術都市」といった理念も必要だ)。これは「空き家問題」「空き家問題 II」「空き家問題 III」で見てきた内容とも整合すると思うがいかがだろう。新しい家族の枠組みを基礎に据えた新しい都市計画、B側を大切にする都市計画。その具体化についてこれからも研究を続けたい。
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