『古代史の謎は「鉄」で解ける』長野正孝著(PHP新書)という本を面白く読んだ。副題に“前方後円墳や「倭国大乱」の実像”とある。以前「歴史の表と裏」の項で、日本の戦後を例にその外史(裏史)を辿ったが、今回はこの本に沿って、日本古代の外史を探ってみたい。尚、この本は2015年10月の出版。長野氏には同年1月に出た『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP新書)という本もある。併せて手掛かりとしたい。こちらの副題は“卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す”。本カバー裏表紙の著者紹介によると、長野氏は工学博士、元国土交通省湾岸技術研究所部長。ライフワークは海洋史、土木史研究という。
概要把握のためにまずその紹介文を、帯表紙、カバー表紙裏、帯裏表紙の順で引用しておく。勿論詳細は両書をお読みいただきたい。
(引用開始)
『古代史の謎は「鉄」で解ける』
<「船の専門家」だから語れる、交易が支えた古代史>
鉄資源の流れから、「前方後円墳は実利を得る「『公設市場』」と看破。価値ある論説だ。(ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』著者竹村公太郎)
船をつくるための鉄斧や武器となる刀の材料になるなど、鉄は古来きわめて重要な資源であった。紀元前から倭人は鉄を朝鮮半島から輸入していたが、1〜2世紀に、『後漢書』などが伝える「倭国大乱」が起こる。著者はこれを、高句麗の南下によって起こった「鉄の爆発」を伴う社会変革だと考える。それ以降、日本に遊牧民の文化である「光る塚」がつくられ、「鉄の集落」が全国で形成された。やがて前方後円墳が大量に築造されるが、あの不思議な形状は鉄の交易に関わる秀逸なアイデアの賜であった――。船と港の専門家が、鉄の交易に着目し日本の原像を探る。
〇 鉄を運ぶために生まれてきた海洋民族「倭人」
〇 黒曜石と土笛が語る草創期の「鉄の路」
〇 高句麗の南下によって生まれた「倭国大乱」
〇 日本海を渡る知恵――準構造船の技術革新
〇 突然できた日本海の鉄の集落
〇 鉄から見た卑弥呼の国――倭国と大和は別の国
〇 敦賀王国をつくった応神天皇
〇 倭国が朝鮮半島で戦った理由――「鉄の路」の維持
〇 前方後円墳はなぜ普及し、なぜ巨大化したのか
〇 埴輪の役割
『古代史の謎は「海路」で解ける』
<技術者の「知」が文献学の壁を破る>
船や海への分析から、邪馬台国が日本海側にあることが見えてくる。深く納得。(ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』著者竹村公太郎)
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の特使である難升米が洛陽まで約2000kmの航海を行ったという。邪馬台国が畿内の内陸にあった場合、彼らは本当に対馬海峡を渡ることができただろうか。またこの時代、瀬戸内海は航路が未開発であったため通ることができず、交易は主に日本海側で行われていたと考えられる。当時の航海技術や地形に基づき、海人(かいじん)の身になって丹後半島の遺跡に身を置けば、鉄と翡翠で繫栄する「王国」の姿が見えてくる……。さらに応神帝の「海運業」や「大化の改新」などの謎を、港湾や運河の建造に長年従事してきた著者が技術者の「知」で解き明かす。
〇 丹後王国をつくった半島横断船曳道
〇 丹後王国の繁栄をつくった日本最古の「製鉄・玉造りコンビナート」
〇 「神武東征」は当時の刳り船では不可能だった
〇 卑弥呼の特使難升米も瀬戸内海を通れなかった
〇 敦賀王国をつくった応神帝と氣比神
〇 雄略帝の瀬戸内海啓開作戦
〇 継体王朝が拓いた「近畿水回廊」とは?
〇 奈良の都の出勤風景と「無文銀銭」・「富本銭」の謎
〇 難しかった孝徳天皇の難波津プロジェクト
〇 「大化の改新」の陰に消された日本海洋民族の都「倭京」
〇 解けた「音戸の瀬戸開削」の謎――厳島詣の道
(引用終了)
<引用者によって括弧などを追加(フリガナ省略)>
日本古代外史を考える際の鍵は、正史であるところの『日本書紀』からどれだけ離れて真実を探ることができるかだ(長野氏は正史を「中央史観」と呼ぶ)。このブログではこれまでその点で共通する小林惠子氏(「繰り返し読書法」)と栗本慎一郎氏(「関連読書法」)、関裕二氏(「時系列読書法」)の諸本を紹介してきた。小林氏は大陸史書の読み込み、栗本氏は経済人類学的所見、関氏は作家的ひらめきと地形・考古学的視点といった特長を持っている。
長野氏は『古代史の謎は「鉄」で解ける』の第一章を次のような文章で始める。
(引用開始)
大昔、朝鮮半島には、遊牧民族、農耕民族と一握りの海洋民族が静かに暮らしていた。鉄が朝鮮半島でつくられ始め、隣の大国中国が侵略したのをきっかけに、ここの民族は存亡をかけた大きな戦いの渦に巻き込まれた。それが千年近く続き、日本まで巻き込まれた。
(引用終了)
<同書 16ページ>
始まりは紀元前三世紀のことという。
この遊牧、農耕、海洋といった民族概念が重要だ。民族によってその文化や言語、宗教や歴史、さらにはその居場所と統治機構の在り方が違う。当初日本列島には、海岸地域に暮らす海洋民族(おそらく朝鮮半島のそれと同類)、内陸に暮らす狩猟民族がいただろう。それが半島と交易するなかで、農耕民族、遊牧民族が移入し、彼らの文化、居場所が形成される。その後、各民族が棲み分け、共生、あるいは戦いながら各々の文化を熟成、列島で鉄がつくられ始める紀元七世紀ごろより、日本は半島・大陸から離れて独自の民族的発展を遂げてゆく。各民族文化のブレンド具合が今に繋がってくるわけだ。
長野氏は、鉄の伝播・生産に基づいた時代区分を次のように分ける。第一段階は鉄の使用段階、二番目は鉄器を製作(鍛造)した段階、三番目は鉄器を鋳造した段階。この三段階と、手漕ぎ丸木舟、準構造船、帆船といった船(と航海技術)の発展三段階を組み合わせ、さらに地形や気象の変化を加味し、長野氏は各民族の進展を跡付ける。
それが紹介文にあるような内容で、正史において隠された倭人の実態、船曳道、丹後や敦賀の繁栄、瀬戸内海海路の開通時期、関東地方の底力、交易市場としての前方後円墳、などが解明される。他の外史論や新発見と突き合わせることでさらに興味深い仮説が見出されるだろう。例えば先日、青谷横木遺跡(鳥取市)から出土した七世紀末〜八世紀初めの板から、奈良県明日香村の高松塚古墳国宝壁画(同時期)と似た複数の女性を描いた図(女子群像)が見つかった。こういった女子群像を含む人物像は中国や北朝鮮の墓に描かれているから、そういう大陸・半島の葬送文化が都の奈良以外に直接普及していた証拠になるのではないか。
「日本海側の魅力」の項で述べたように、私は日本列島への文化の流入ルートとしていわゆる「時計回り」、シベリアから北海道を経て東北、北陸へと伝わった筈のヒトとモノのトレースに興味を持っている。長野氏も、
(引用開始)
鉄の歴史を追うとき、高句麗の歴史に踏み込み、中央史観が中心地と見なす近畿以外の信州、群馬、埼玉の高麗の国の歴史をさらに詳しく調べてみる必要がある。それによって、全く違う日本史が見えてくる。
三世紀の宗教祭祀の実際、たとえば、高句麗から鬼神の思想と信仰にもとづいた魔よけ思想が、二世紀頃に日本に渡来している。また、その時代の道教の神仙思想や牽牛と織女を中心とする七夕の儀式、中国東北部の原野を家畜と旅する放牧民の祭祀、状況を想像すれば、その時代の日本人の精神構造がわかるような気がする。
(引用終了)
<同書 209ページ>
と書いておられる。高句麗、その周辺の扶余、沃祖、挹婁、粛慎、靺鞨、さらには背後にあった鮮卑、柔然、突厥、高車といった国々の動きに注目すべきだ。これからも研究を続けたい。
尚、本の帯表紙にコメントを寄せている竹村公太郎氏は、長野氏と同じ元国土交通省職員(河川局長)、二人は実務家という点で共通している。このブログでは「地形と気象から見る歴史」、「中小水力発電」の項などで竹村氏の著書も紹介してきた。併せてお読みいただきたい。
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