この『春秋山伏記』は、羽黒山の山伏(修験者)と庄内地方の村人たちを描いた物語である。著者の「あとがき」にもあるが、どちらかというと山伏よりも村人の生活に焦点が当てられている。その「あとがき」から一部引用しよう。
(引用開始)
庄内平野に霰が降りしきるころ、山伏装束をつけ、高足駄を履いた山伏が、村の家々を一軒ずつ回ってきたことをおぼえている。(中略)
こういう子供のころの記憶と、病気をなおし、卦を立て、寺子屋を開き、つまり村のインテリとして定住した里山伏に対する興味が、この小説の母体になっている。
とは言っても、山伏に対する子供のころの畏怖は、まだ私の中に残っているようだ。彼らは普通人と同じように、村の中で暮らすことも出来たが、修験によって体得した特殊な精神世界を所有することで、彼らは一点やはり普通の村びとと違っていただろうと考える。そこは、ただの人間である私には、のぞき見ることが出来ない世界である。畏怖はそこからくる。
そういうわけで、この小説は山伏が主人公のようでありながら、じつは江戸後期の村びとの誰かれが主人公である物語になっている。
またこの小説で、私はほとんど恣意的なまでに、方言(庄内弁)にこだわって書いている。およみくださる読者は閉口されるに違いないが、私には、方言は急速に衰弱にむかっているという考えがあるので、あまりいい加減な言葉も書きたくなかったである。ご諒承いただきたいものである。
(引用終了)
<同書 306-308ページ(フリガナ省略)>
閉口するどころか、私は大いに庄内弁を楽しんだ。村人たちが遣う日常の言葉は物語にリアリティを与えている。土地の言葉は歴史(時空の集積)そのものだからだ。
同書の解説によると、「庄内弁とは恐らく、京都の言葉が海岸沿いに北進してこの地方に定着し、東北訛(なま)りと融合したものであろう」とのことである。その一端を同書から抜書きしてみよう。物語の最初に、村人「おとし」が、山伏・大鷲坊となって帰ってきた「鷲蔵」と出会うときの会話。
(引用開始)
「お前(め)、鷲蔵さんでねえろが?」
「ンだ」
と大男の山伏は言った。
「あいや、肝消(きもげ)だ(驚いた)ごど」
おとしは本当に驚いて言った。
「せば、おらっさけだ(さっき)、鷲蔵さんから助けらえだなだがや」
「お前(め)は誰(だえ)だっけの?」
大鷲坊は首をひねってじっとおとしの顔を見た。
「おら、重右ェ門(じようえむ)のおとしだども」
「重右ェ門? ああ、おとし……」(中略)「思い出した。お前(め)は泣き味噌(みそ)の女子(おなんこ)での。俺がわぎさ行(え)っただけで、泣き出したもんだった」
「ンだがものう。鷲蔵さんはおっかなかったもの」
「しかし、あの泣き味噌が、きれいなあねさまになったもんだの」
「やんだ、おら」
おとしは顔を隠して言い、手を離すと赤い顔になって大鷲坊をみ、小さな笑い声を立てた。眼の前の怖い山伏が、あの鼻つまみの鷲蔵だとわかった気楽さと、きれいなあねさまというひと言に誘われて、思わず若い身振りになっていた。(中略)
「おとし、さっけだ(さっき)がら、その……」
大鷲坊がおとしの抱えている笊(ざる)を指さした。
「笊かっつめ(抱え)でいるども、それは何だ?」
「あ、これ」
おとしはあわてて笊の青物をさしだした。
「これ、さっけあだのお礼に持ってきたなだもの。だべでくらへ」
(引用終了)
<同書 24−25ページ>
「庄内平野の在来野菜」でも書いたように、これからはこういうlocalな価値がものを云う時代だと思う。『春秋山伏記』は、昭和53年(1978年)に書かれた。戦後の高度成長期(1955年−1973年)と、その後のバブル期(1985年−1991年)との中間時点である(各期の年代は諸説ある内の一つ)。多くの日本人が経済成長に舞い上がっていたこの時期、将来を見据えてこういう作品を残してくれた作家もいたのである。
修験道については、以前『百花深処』<修験道について>の項で書いたことがある。併せてお読みいただきたい。写真は先日旅行時に撮った羽黒山五重の塔。
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