黒川伊保子さんの新しい本、『感じることば』(河出文庫)を面白く読んだ。黒川さんは、「株式会社感性リサーチ代表取締役。メーカーで人工知能の開発に従事した後、世界初の語感分析法を開発。マーケティング分野に新境地を拓く感性分析の第一人者」(カバー表紙裏の略歴から)で、このブログではこれまで、「発音体感」「発音体感 II」などの項でその著書を紹介してきた。
この本に、「楽しい(タノシイ)」と「嬉しい(ウレシイ)」の語感の違いを説明した箇所がある。「成程!」と思ったので紹介しておきたい。まずは二つの言葉の語感から。
(引用開始)
今この瞬間の充実した気持ち。それを記憶に留めるのが、タノシイ。
今までずっと抱いてきた気持ち。それを溢れさせるのが、ウレシイ。
(引用終了)
<同書 103ページ>
とある。では、どうしてそう言えるのか。発音体感に即した説明を以下引用する。まずはウレシイの方から、そのあとタノシイについて。
(引用開始)
ウレシイは、口腔に、内向する力を創り出す母音ウで始まることば。ウを発音するとき、私たちは、舌にくぼみをつくるようにして奥へ引く。このため、ウには、受け止めるイメージ、あるいは内向するイメージがある。
さらに、先頭音に使われるウには、発音の口腔形を作ってから、実際に音が発生するまでに時間がかかるという特徴がある。このため、先頭にウが来ることばには、「長く抱く、内向して熟成させる」イメージがある。すなわち、先頭のウには、“思いの時間”があるのである。
だから、ウレシイもウラメシイも、「ずっと思っていたこと」に由来した気持ちの表明によく似合う。妻が夫をウチノヒトと呼ぶようになるまでにいくばくかの時間が必要なのも、ウの時間パワーのせいだ。
二音目のレは、舌を広くして、ひらりと翻す。まるで宝塚のレビューのように、何かを華やかにお披露目するイメージだ。
続くシは、光と風を感じさせる。舌の上を滑りでた息が、前歯の裏側で擦られて、放射線状に広がるから。最後のイは、舌に前向きの強い力を加えて、前向きの意志を感じさせる母音。語尾に使うと、「差し出す感じ」「押し出す感じ」を添える。
こうして、ウレシイの発音体感は、「私の心にずっと抱いていたものを誇らしげに披露する」というイメージを創りだす。ウレシイと言われた側も、その発音体感を無意識のうちに想起して、その語感に照らされる。だから、「あなたとの時間が嬉しい」というのは、この上ない愛のことばなのである。
さぁ、一方の、タノシイのほう。
先頭音のタは、舌に息を孕(はら)んで、一気に弾き出す音だ。音の発生直前、舌が息を孕んで膨らむので、充実感がある。たっぷり、たんまり、たらふく、たらり……その充填されて膨らんだ印象は、発音時の舌が感じていることに他ならない。
発音の瞬間には、舌の上の唾をすべてはがすようにして、息が弾き出される。このため、唾が派手に飛ぶ。これが、賑やかさやいきいきとした生命力を醸し出す。
こうして、タ行の音は、発音直後の膨らむ舌が感じる充実感、充満感、確かさ、ぎりぎりまで耐える粘りと、発話直後の飛び散る唾によって生じる賑やかさや生命力という二重のイメージを持っているのである。
したがって、タノシイは、先頭音のタが、充実した賑やかな時間を表現している。包み込むようなノスタルジーのノにいって、それを思い出に変え、続くシイで光の中に押し出す。
このため、面白いことに、タノシイと言ったそばから、目の前の現実も思い出に変っていくのである。
あるいは、人は、現在進行中の楽しい出来事を記憶に留めようとして、あえてこのことばを口にするのかもしれない。
(引用終了)
<同書 100−102ページ(傍点は太字)>
いかがだろう。発音時に口内で起る壮大な熱力学と流動力学(!)。
さて、デートのとき、この「ウレシイ」と「タノシイ」はどのようなsituationで使われるかを見てみよう。
(引用開始)
「楽しかったわ」
デートの終盤、オトナの女性がこれを口にしたら、ほぼ九割は「さぁ、帰りましょう」の合図である。「充実した時間だった。いい思い出になったよね」というご挨拶。もちろん相手を嫌っているわけじゃないけれど、離れがたさよりも、電車の時間や家族の心配が気になっている。
ただし、気をつけて。あまりにも離れがたい思いが強すぎて、勢いのあるタノシイで、なんとか踏ん切りをつけようとする場合もある。
トテモ、タノシカッタ、マタ、アッテネ。あまりにも離れがたくて、ここまで舌の破裂音を重ねないと、とても帰れない……そんな思いを幾度か重ねた後、やがて率直に「あなたに逢えて、嬉しい」と甘いため息をつく晩がやってくるのだろう。その果ての「あなたと過ごした時間は楽しかったわ、ありがとう」と別れゆくその日まで、男と女の時間は、ウレシイとタノシイの綾織りなのに違いない。
(引用終了)
<同書 103−104ページ(傍点は太字)>
日本語の語感は、この発音体感と、石川九揚氏の「筆蝕体感」によって形成される、というのが(黒川さんと石川氏に導かれての)私の考え。起業家の皆さんは、社名や商品名を創るときなどに、この二つ(発音体感と筆蝕体感)を参考にすると良いと思う。
尚、黒川さんの著書については、「日本語の力」「少数意見」「男性性と女性性」「現場のビジネス英語“sleep on it”」「流行について」などの項でも紹介してきた。併せてお読みいただきたい。







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