『神道はなぜ教えがないのか』島田裕巳著(ワニ文庫)を面白く読んだ。日本固有の神道は、開祖も、教義も、救済もない、ないないづくしの不思議な宗教だという。本カバー裏表紙の紹介文を引用しよう。
(引用開始)
古代から現代にいたるまで私たちの暮らしに深く関わっている「神道」。だが私たち日本人は「神道」という宗教の本質を本当に理解しているといえるだろうか?本書では、開祖もいなければ、教義もない、そして救済もない「ない宗教」としての神道の本質を見定め、その展開を追う。日本人が神道とどのようにかかわってきたかを明らかにすることは、私たち日本人の基本的な世界観や人生観を考えることにつながっていくのである。
(引用終了)
先日「宗教から芸術へ」の項で、同じ島田氏の『宗教消滅』(SB新書)という本を論じた際、複眼主義の対比、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
において、宗教における「教義」の部分は、もっぱらAの側で理論構築され、感性が支配する「信仰」部分は、おおむねBの側と親和性が強いと書いたが、日本固有の神道にはなんとAの側がないわけだ。日本語的発想だけでA側の教義を構築することの難しさである。ちなみに、西洋と出会う前の日本では、古来A側は漢文的発想によって担われてきた。
同項ではまた、普通の宗教はAとBのバランスの上に築かれるもので、独善的な教義や行き過ぎた信仰行為は抑制されると書いたが、神道の場合、Aがなくてどのように信仰が抑制され得るのか。教義がなくてどのように信仰があるのか。
神道のもとを辿れば、古代から日本列島にあった自然信仰に行き着く。『百花深処』<修験道について>の項でみたように、古代からの自然信仰は中国の陰陽五行思想と習合して神道となり、その神道は仏教と習合する。神道はその後、儒教とも習合する。つまり日本人は、神道の教義のない部分を、他の思想や宗教の教義で補ってきた。「教義」は外来思想・宗教、「信仰」は神道ということで、AとBのバランスをなんとか保ってきたわけだ。
しかし、王政復古によって誕生した明治政府は、祭政一致の国家体制をつくるべく、「神仏判然令」(「神仏分離令」ともいう)によって、神社から仏教的要素を一掃した。廃仏毀釈である。江戸時代より、神道の「教義」の部分をなんとか自前の思想でつくろうということで「国学」が生まれていたのだが、明治政府はこれを利用した。それを復古神道という。
だが、西洋はこの段階で近代国家をつくっており、古い祭政一致の試みは失敗に終る。明治政府は次に西洋の立憲君主制を範に取り、天皇を君主とする立憲君主制を採用する。さらに天皇を現人神とする「皇室祭祀」を整えた。その際、神道は国家全体の祭祀であり宗教ではないとされた。それが国家神道である。形だけ西洋に範を取りながら、頭は祭政一致にあったのだろう。
宗教でなければ「教義」も「信仰」もない。神道が「ない宗教」だったからできた荒業というべきである。だが国家神道は国民をむちゃくちゃな戦争へ駆り立てていった。もはや国にAとBのバランスを取るメカニズムは存在しなかった。
戦後、国家神道は崩壊し、神社には宗教法人格が与えられる。明治以前に戻ったわけだが、神道に「教義」はないのだから、AとBのバランスは崩れたままだ。A側の不在。これは『百花深処』で書いた<日本の戦後の父性不在>に繋がる問題である。
これからの時代、「宗教から芸術へ」の項で見たように、共同体の紐帯は、情緒的・宗教的なものから、より理性的なものになっていくべきだと思う。A側は、宗教の教義によってではなく、「日本流ディベート」の項で述べたような「対話」をベースにしたResource Planning、立法・行政制度設計であるべきだろう。その際、A側不在の神道は、昔の自然信仰の象徴として機能させるべきだと思う。
先日あたらしい小説『記号のような男』を書いた。主眼は「形のあるものをつなぐと、形のないことのつながりが見えてくる」というテーマなのだが、社会の奥にある人々の心の拠り所として、「神道=山岳信仰」というコンセプトを明示採用してみた。併せてお読みいただけると嬉しい。
P.S. 小説『記号のような男』はリライト中。小説投稿サイト「カクヨム」の該当記事を非公開にしました。(5/5/2019)電子書籍サイト「茂木賛の世界」に小説『記号のような男』のリライトバージョンをアップしました。(5/26/2019)
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