現代の日本映画には「何も(ドラマが)起らない映画」という筋がある。場所と人との関係が中心テーマで、ドラマチックなストーリー展開がなく、淡々とその時空が描かれるような映画、場所と登場人物たちの魅力だけでもっているような作品。私が辿った範囲では、2006年の『かもめ食堂』(荻上直子監督)がその劈頭を飾るようだ。
『かもめ食堂』(荻上直子監督)2006年
『めがね』(荻上直子監督)2007年
『食堂かたつむり』(富永まい監督)2008年
『プール』(大森美香監督)2009年
『マザーウォーター』(松本佳奈監督)2010年
『レンタネコ』(荻上直子監督)2012年
『しあわせのパン』(三島有紀子監督)2012年
『パンとスープとネコ日和』(松本佳奈監督)2013年
と続く。「ファッションについて II」の項で触れた2015年の『縫い裁つ人』(三島有紀子監督)や、「日米の映画対比」の項で紹介した2014/2015年『リトル・フォレスト(春・秋/冬・春)』(森淳一監督)なども、この筋に重なると思う。これらの作品は、自然描写、食べ物、丁寧に描かれる日々の暮らし、四季の移り変わり、人々の関係性など、複眼主義でいうところのB側、
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B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
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の考え方が横溢している。原作や企画、監督(上記)や出演者には女性が多い。原作者では群ようこさん、企画としては霞澤花子さん、出演者では小林聡美さんやもたいまさこさん、市川実日子さんなどなど。
B側の映画(B級映画ではない!)は観ていていつもホンワカとした気分になる。なんとなく懐かしい気分になる。それは、観客としての自分の生命の時空と、映画の中の時空とがシンクロするからではないだろうか。だから見終わった後も心地よさが残る。元気になる。皆さんはいかがだろう。
普通映画では、上映1時間半なりの中に、起承転結を踏まえた枠組み(フレーム)があり、そこで恋愛や戦争、社会問題といった各種ストーリーが展開するわけだが、その枠組みは、「背景時空について」の項でみた「人の脳が認識しようとする主役を、単体として浮かび上がらせる為のもの」である。観客は脳の働きでストーリーを追う。複眼主義でいうA側の作用だ。
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A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
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だから普通の映画の場合、場所や登場人物の魅力は勿論大切だが、ストーリーが駄目だと映画自体面白くない。例えば、最近DVDで観た『ソロモンの偽証(前編・事件/後編・裁判)』(成島出監督)は、登場人物・柏木卓也のキャラクターが弱いこともあって、ラストがいまひとつだった。
ストーリーが存在しない「何も(ドラマが)起らない映画」においては、起承転結といった枠組みもない。あるのは場所と登場人物の魅力だけである。いってみれば場所そのものが「フレーム」となる。あとは全て「シークエンス」。こういう映画は、日本以外にはあまりないのではないか。先日イギリス・イタリア合作の『おみおくりの作法』(ウンベルト・パゾリーニ監督)を観ていてそうなる(何も起らない)かと思ったら、最後にドラマが待っていた。他にはあるだろうか。すこし調べてみよう。いずれにしても、日本の女性監督は世界へ出て行って、どんどん「何も(ドラマが)起らない映画」を作ったらどうだろう。そっち(B側)だけを強調した映画。『かもめ食堂』や『プール』の発展形として、場所だけでなく出演者もその地域の人々を中心としたもの。
たとえば「日米映画の対比」で紹介した『警察署長ジェッシイ・ストーン』をベースにしてそれを作る。警察署長ジェッシイ(トム・セレック)の住む海辺の小さな家、彼はいつもウィスキーを飲みながらブラームスのピアノ協奏曲を聴いている。となりのソファには大きな犬が寝そべっている。夜の海、月の光、朝の日差し、田舎町パラダイスに住む人たちの日々の暮らし、寄せる荒波、漁師たちの生活、太平洋という自然。そこへジェッシイの元妻がロス・アンジェルスから移り住んでくる。彼女は町で何か店を開く。そんな、場所と人との関係だけをテーマにした『パラダイス』。事件は何も起らない。そんな映画はどうだろう。
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