映画の話の次は絵画について書こう。『名画に隠された「二重の謎」』三浦篤著(小学館101ビジュアル新書)という本が面白かった。本カバー表紙裏の紹介文には、
(引用開始)
「見ることの専門家」である「わたし」が美術館でみつけた、名画に残された「事件」の痕跡。
その小さな痕跡を探ってゆくと、
大きな謎の存在が明らかになる……。
19世紀末、芸術の都パリを震撼させた「二重の謎」が、
いま白日の下にさらされる。
共謀したのはゴッホやマネ、ドガ、セザンヌなどの巨匠たち。
西洋近代絵画に起った一連の「変革」の意味について、
推理小説仕立てで描き出す、新しいスタイルの美術入門書。
美麗な図版と貴重な部分図、満載!
(引用終了)
とある。目次にある「事件」とは以下の通り。
第一章 謎は細部に宿る
1 マネのためらい――「残された二つの署名」
2 アングルの予言――「ヴィーナスの二本の右腕」
3 クールベの告白――「二人の少年の冒険」
第二章 映し出された謎
1 ドガの情念――「見捨てられた人形」
2 ボナールの幻視――「鏡の間の裸婦」
3 マティスの緊張――「闇に向かって開かれた窓」
第三章 名画の周辺に隠された謎
1 ゴッホの日本語――「右側と左側」
2 スーラの額縁――「内側と外側」
3 セザンヌの椅子――「右側と左側」再び
著者はこれらの作品について次のように書く。
(引用開始)
結局のところ、19世紀フランスとは、絵画が絵画を意識した時代であったと思う。優れた画家は皆、絵画を構成する形式的な要素に敏感に反応した。絵が何でできていて、どのように描かれ、何を目指すのかという問題に、各々の画家が各々の観点から取り組んだ成果が作品にほかならない。19世紀後半のフランスにおいて、絵画は、自らが作られたイメージであることを鋭く意識したのである。
(引用終了)
<同書 185ページ>
写真の出現などによって、絵画とは何かということが意識された時代。この本は、当時の画家たちの次のような興味深い試みを明らかにする。
マネ:絵の平面性を確信した画家における空間と平面の葛藤。
アングル:形態を自由にデフォルメ、コラージュする先駆的な造形意識。
クールベ:伝統的絵画を揺るがす無垢や素朴さといった新しい美意識。
ドガ:画中画にこだわる画家の芸術家という存在への認識や問いかけ。
ボナール:鏡を偏愛する画家における虚構性と多層性の表現。
マティス:戦争という非人間的な状況への反応。
ゴッホ:絵と文字の合成による異文化への興味、画家としての感性。
スーラ:絵画の枠取りに対する固執と多様な手法。
セザンヌ:周辺的なモティーフによる造形と色彩表現。
引用を続けよう。
(引用開始)
ある主題を三次元空間に展開する物語的、逸話的な場面として、写実的に描写する伝統的な絵画が、徐々に崩壊への道を歩んでいた。現実再現性が皆無(かいむ)になったわけではないが、そのレベルは確実に低下しつつあった。
奥行きが浅くなり、表面が浮上した絵画においては、空間がゆがみ、人体が変形し、筆触の効果が露(あらわ)になった。書名も額縁も絵の一部と化し、絵の中の文字が自己主張を始めた。もはや絵画はイリュージョンではなく、絵の具を塗られた表面でしかなかった。絵画は虚構のイメージとして構成され描かれという認識が行きわたり、そのための手段に対する意識が浸透していった。その結果、イメージは単純ではなく複層的になる。絵の中に絵が挿入され、絵画の比喩(ひゆ)でもある鏡や窓のモティーフが意味を担い、存在感をもった。
まさに、絵画とは何かという諸条件が意識された時代。絵は平面であり、構図や形態は自由にしてよく、アカデミックな価値観に縛られる必要などなくなった。デフォルメもコラージュも問題ないし、上手(うま)い下手(へた)という技術は異なる、子供のような新鮮な感受性が必要とされた。現実再現ではなく、自由な感性を媒介(ばいかい)にして色彩と形態で作られるものこそが絵画であることが、次第に明瞭になっていったのである。(中略)
19世紀後半から20世紀初頭のパリにおいて、絵画が絵画であることに目覚めた。その結果、それまでの常識、基準、枠組みが覆(くつがえ)され、斬新な試みが実践される状況が生まれた。フランス近代絵画史とはそのような歩みであったと、私の眼には映るのである。
(引用終了)
<同書 185-187ページ>
20世紀を前にしたこれらの変革はなかなか奥が深い。
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