前回「自分と外界の<あいだ>を設計せよ」の項で、梨木香歩さんの『不思議な羅針盤』(新潮文庫)を紹介したが、そのなかの「近づき過ぎず、取り込まれない」と題された第3章に、竹林の話がある。竹林は地下茎でどこまでも増えてゆくから、たくさん生えているようでも全体が一つの個体のようなものだという話で、そのあと梨木さんは次のように書く。
(引用開始)
様々な方向性を持つ雑多な木がつくりだす場の雰囲気と、一つの方向に先鋭的に深化してゆく場のムード。多様性に溢れた前者が健康的で、排他的な後者が病的に感じられるのはたぶん多くの人が納得できることだろうけれど、どちらの「引き寄せる力」の磁場が強いかというと、一概には言えない。それぞれ、そのときの自分の意識の持ちようによって予想もできない力をはっきするものだから。
(引用終了)
<同書 24ページより(フリガナ省略)>
ここで竹林は排他的で熱狂的な全体主義の例えとなっている。
モノコト・シフトの時代は、冷たい脳(大脳新皮質)の働きよりも、熱くなりやすい身体(大脳旧皮質と脳幹)の働きを重視するから、それは一面「熱狂の時代」ともなる。
以前「勝負の弁証法 II」の項で、「勝負が“コト”であってみれば、“モノコト・シフト”の時代、世界中でスポーツ・イベントやゲームがますます興隆するであろう」と書き、「nationとstate」の項で、「総じて、今のnationという括りは、これからより分裂圧力を強めると思われる」と書いたけれど、スポーツも政治も、そして戦争も、人々が熱狂しやすいイベントだ。
熱狂することの問題点は、「三つの宿啞」の項で示した、
(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置
のうち、(3)の認知(思考)の歪みが生じ易いことである。熱狂によって感情が大きく揺すぶられると、過剰な財欲と名声欲(greed)と官僚主義(bureacracy)の放つ騙しのテクニック各種によって、人々の思考が一つの方向に束ねられる危険性が高まる。
「モノコト・シフトの研究」の項で、「都市の一部には、利権がらみで意図的にA偏重社会の持続を画策する人々もいる」と書いたけれど、複眼主義の対比、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
において、greedとbureacracyに侵された人々は、民衆のBに基づく「熱狂」を自分達の利権維持のために利用する。
熱狂がスポーツ・イベントに向かっているうちは良いが、それがマネー経済や政治、特に戦争に向かい始めたら気をつけなければならない。梨木さんは「近づき過ぎず、取り込まれない」のなかで、幼い時、竹林のしんとした静けさに悲壮感に近いリリシズムを感じたと書き、その章の最後に、
(引用開始)
大人になった今はただ、社会全体が排他的な竹林になるのが怖い。そしてそこから抜け出せなくなるのが。
(引用開始)
<同書25ページより>
と付け加えておられる。上の対比にもある通り、日本語はそもそもBに偏しているから特に気をつけたい。先の大戦時を思い起こすべきだ。
これからの日本にとって、2020年に予定されている東京オリンピックは一つの試金石だと思う。今後greedとbureacracyによってオリンピックへの「熱狂」を煽るありとあらゆるプロパガンダが繰り出されるに違いない。そしてそれが、都市集中やナショナリズム高揚へと巧妙に仕切られていく。だから浮かれてはならない。常にクールな頭(大脳新皮質)で、物事の表と裏を見極めるようにしなければならない。
時代がBに偏して来るからといって、個人ベースではAの重要さを忘れてしまってはいけない。複眼主義でいつも繰り返すように、活き活きとした社会を創る為には、AとBのバランスが重要なのである。
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