「生産が先か消費が先か」で考察したように、人生は「生産」(他人のための行為)あっての「消費」(自分のための行為)だとすると、その逆を前提と考えていた人にとっては、いろいろなことがこれまでと違って見えてくる筈だ。たとえば贅沢をすることの意味はどうだろう。
人生の目的が「消費」だと考えていた人にとって、「贅沢」とはいわば究極のゴールだろう。「バリ島へ行くために今お金を貯めているのよ」ということであれば、バリ島で贅沢な時を過ごしてしまえばそこで人生はリセットされ、次からは別の、より大きな「贅沢」を探さなければならない。そしてとうとう次が実現できない日が来ると、その人の人生はそこで終わってしまう。
しかし人生の目的が「生産」であってみれば、バリ島で過ごした贅沢な時間は次の「生産」へ向けた準備期間に相当するだけで、次により大きな贅沢が出来なくとも、人生がそこで終わることはない。
では贅沢をすることに意味はないのだろうか。贅沢は(人生の)敵なのだろうか。決してそうではあるまい。なぜならば、バリ島で贅沢な時間を過ごすことの出来た人には、次に、その人にしかできない集中度の高い「生産」が可能となるはずだからだ。バリ島でリフレッシュした女性は、帰国後、長年胸に温めてきた独立・起業が出来るかもしれないのだ。
贅沢に限らず、なかなか味わえない特別な体験をした人には、そのことによって、その人にしか出来ない「生産」が可能となる。人生の目的が「生産」であってみれば、贅沢や特別な体験は、その人とその人を取り巻く社会にとって貴重な財産になるのだ。大金持ちの家に生まれてきた人、逆に貧乏のどん底から這い上がってきた人、「コーヒーハンター」の著者のように長年海外で暮らしてきた人、事故で九死に一生を得た人、出世コースのトップに立った人などなど。
贅沢や特別な体験とは、次の「生産」の質を高めるための「消費」であると考えれば、出来る人は(他人に迷惑が掛からない範囲で)どんどん贅沢や特別な体験をすべきだということになる。社会の平等性とは、全員が横並びで我慢することでは決して無く、贅沢が出来る人はその分だけ社会に貢献し、出来ない人はそれなりに貢献するという幅のある考え方でなければならない。社会には多様性が必要だ。特別な体験をした人は必ずそれを社会へ返してくれることが分かっていれば、人の贅沢を羨む必要もない。
しかしこのことを逆から考えると、特別な体験をした人には、その人にしかできない集中度の高い「生産」を行う責任が生まれるということでもある。たとえば「ハブ」と呼ばれる知人・友人が非常に多い人たち。そういう人たちは、『広く門戸を開き、公平性(次数相関「±0」)を心がけることで、数多くのリアルな「場」を作り出し、社会のスモールワールド性をより加速させること』(「ハブ(Hub)の役割」より)が期待されるわけだが、むしろ彼らはそのような「社会的責任」を持つと考えた方が良いだろう。
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