「モノコト・シフトの研究」と「モノコト・シフトの研究 II」の項で、これからは、「固有の時空」を大切にする時代であり、大切な固有時空には、
● ある程度持続する
● まわりに好影響を与える
といった特徴があると述べた。最近文庫になった梨木香歩さんの『不思議な羅針盤』(新潮文庫)は、日常生活で出会う様々な時空について、細やかな観察眼で綴った心地良いエッセイ集である。
時空をどう見極めるか、自分と外界との<あいだ>をいかに設計し、悪影響を及ぼす時空を遠ざけ、好影響を与えるそれに接近するか、そういったことが、
1 堅実で、美しい
2 たおやかで、へこたれない
3 近づき過ぎず、取り込まれない
4 足元で味わう
5 ゆるやかにつながる
6 みんな本物
7 近づき過ぎず、遠ざからない
8 世界は生きている
9 「スケール」を小さくする
などなど、全部で28の章に分けて書いてある。本カバー裏表紙の紹介文には、
(引用開始)
ふとした日常の風景から、万華鏡のごとく様々に立ち現れる思いがある。慎ましい小さな花に見る、堅実で美しい暮らし。静かな真夜中に、五感が開かれて行く感覚。古い本が教えてくれる、人と人との理想的なつながり。赤ちゃんを見つめていると蘇る、生まれたての頃の気分……。世界をより新鮮に感じ、日々をより深く生きるための「羅針盤」を探す、清澄な言葉で紡がれた28のエッセイ。
(引用終了)
とある。自分に好影響を与える場所についての梨木さんの文章も本書から引用しておこう。
(引用開始)
別に有名なスポットでも何でもないのだが、ああ、ここはすてき、と思う場所がある。林の中に、そこだけぽかんと陽の光が当っているような場所。広葉樹の若葉が、天蓋のように空を覆っているような場所。異国で迷って路地を入っていくと、思いもかけない中庭を見つける。涼しい風が吹いて、ベンチがあり、行きずりの人のためにも開かれている。あるいは古いデパートの、喧騒を離れた場所にある踊り場。入るとくつろぐ喫茶店。
町中のあちこちに、日本中のあちこちに、世界中のあちこちに、そういう場所があることを憶えている。心が本当に疲れているときは、砂漠のオアシスを目指すように、頭の中でそういう場所を彷徨う。
大好きな場所をいくつか持っていることはいい。
(引用終了)
<同書 112ページより(フリガナ省略)>
ちなみに、「自分と外界の<あいだ>を設計せよ」というタイトルは、先日「住宅の閾(しきい)について」の項で紹介した『権力の空間/空間の権力』の副題「個人と国家の<あいだ>を設計せよ」からアナロジーとして拝借した。これからの時代、「個人と国家」間だけではなく、「自分と外界」との間の設計そのものが問われると思うからだ。
自分とは一つの大きな渦(vortex)である。それを取り巻く外界は、大小様々な渦に満ちている。「食排、運動、仕事、読書、恋愛、気象、我々自身とそのまわりでは無数の“コト”が日々起っている。そしてまた消滅している」と「モノコト・シフトの研究 II」の項で書いた通りである。
コトを大切に考えるこれからの時代、いかに自分と外界との間を上手く設計するかはとても重要なファクターになる筈だ。自分のためだけではなく、周囲に自分が好影響を与え続けるためにも。それはまた個人の自立をも促す。個人と国家間の設計作業が始まるのはその後だ。
この設計図は起業家にも欠かせない。モノコト・シフト時代の産業システムは大量生産・輸送・消費から、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といったものに変わっていく。朝昼晩、どのように自分と外界(この場合は身近な顧客、従業員、家族など)との間合いを取るか、それが遠隔操作で外界との話を済ませてきたこれまでと違って重要な課題となるだろう。
作家としての梨木さんは、本の執筆を通して読者に好影響を与えようとしている。先日も『百花深処』<人が育つ場所>の項で、梨木さんの『雪と珊瑚と』(角川文庫)と『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(岩波現代文庫)について評論したが、よい本を書くために必要な身の回りの設計、『不思議な羅針盤』は、彼女のそういう想いを乗せた内容ともなっている。
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