このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと書いている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。最近では「観光業について」や前回の「里海とはなにか」などの項でこの説を引用した。今回は一度原論的なところへ戻り、ある事象(matter)を“モノ”として見るか“コト”として見るか、その違いについて考えてみたい。
たとえば「人」をどう見るか。「人」を“モノ”としてみるのは、人口比率とか頭数など、人を「数」として捉える思考法である。一方、「人」を“コト”としてみるのは、○○さんの生涯とか隣のXXさんなど、人を「生命」として捉える思考法である。このブログでは複眼主義と称して、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
という対比を論じているが、前者はAと親和性が強く、後者はBと親和性が強い。このことは以前「デジタル回路とアナログ回路」の項で措定した、
A、a系:デジタル回路思考主体
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)
B、b系:アナログ回路思考主体
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)
という対比と整合する。
都市においては、「人」を数として扱うことで、インフラの設計などが可能になる。自然(人間同士)においては、「人」を生命体として捉えることで、活き活きとした活動が生まれる。健全な社会のためには、AとB、両者のバランスの取れた見方、考え方が必要になるのだが、20世紀は西洋近代思想が世界を席巻し時代であり、先進国を中心として、見方、考え方がかなりAに偏った社会になってしまった。今はその反動として、見方、考え方がBに偏重してきたわけだ。スローフード、シンプル・ライフ、サステイナビリティー、再生可能エネルギー、シェアリング・エコノミー、里山、里海、庭園都市などなど。
地球がもっとresilient(強復元力的)であったならば、人々はまだAに偏重し続けたかもしれない。だがそのままでは環境が持たないことが分かってきた。このことが大きい。今の時点では勿論、Bの重要性に気付いた人々と、そうでない人々は混在している。また、都市の一部には、利権がらみで意図的にA偏重社会の持続を画策する人々もいる。「三つの宿啞」の項で述べたところのgreedを持つ人々だ。
たとえば「石」をどう見るか。「石」を“コト”としてみるのは、地球物理学者か鉱石愛好家くらいなもので、たいていの人は「石」を“モノ”としてみるだろう。「石」も長い年月が経てば少しずつ崩壊する。だから寿命はある。しかし普通は誰も石の寿命など考慮しない。寿命とは「固有の時空」の持続だから、「石」を“モノ”としてみるのは、その固有時空を考慮の外に置くということである。それを「凍結した時空」として扱うということである。逆に、地球物理学者や鉱石愛好家が「石」を“コト”としてみるのは、その固有時空を大切に考えるからである。
Bの考え方は、総じて「固有の時空」を大切に扱う。世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみるからだ。ある事象を“モノ”としてみるか“コト”としてみるか、その違いの背景には、この「時空の捉え方」の違いがあると思う。Bの考え方が主流になるということは、自然科学の分野でも大きな地殻変動が起きつつあるということだ。生態学の変動については「里海とはなにか」の項で触れた。時空の捉え方については以前「複眼主義の時間論」で述べた。併せてお読みいただきたい。
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