「里海」という耳新しい言葉がある。『里海資本主義』井上恭介/NHK「里海」取材班共著(角川新書)という本のタイトルになっている。新聞紹介文を引用しよう。
(引用開始)
海の健康を保持し、より豊かにするメカニズムが<里海の思想>だ。それは水質悪化で悲鳴をあげていた瀬戸内海の再生のために、猟師や過疎の島の住人たちによる取り組みから始まった。自然と対話し、適切に手を加え、本来の命のサイクルを取り戻すにはどうすればよいのか。市民に身近な里山・里海の拓(ひら)く未来を展望し、生命の無限の可能性を考える。
(引用終了)
<東京新聞 9/13/2015>
ということで、どうやら「里山」と対になるコンセプトのようだ。「里山システムと国づくり II」などの項で紹介した『里山資本主義』(角川oneテーマ21)の共著者、藻谷浩介氏が本書の解説文を書いている。以下、藻谷氏の解説を引用しながら、「里海の思想」に迫ってみたい。まず里海と里山とはどこが違うのか。
(引用開始)
そもそも「里海」とは何か。「人間の暮らしの営みの中で多年の間、多用に利用されていながら、逆にそのことによって自然の循環・再生が保たれ、しかも生物多様性が増しているような海」のことであろうと、筆者はこの本を読んで理解した。(中略)
そのような「里海」と、「里山」は似たようなものなのか、あるいは何か決定的に違うのか。「里山」も、「人間の暮らしの営みの中で多年の間、多用に利用されていながら、逆にそのことによって自然の循環・再生が保たれ、しかも生物多様性が増しているような樹林地・農用地」であると理解できるが、違うのは、「里山」は無数に存在可能な「入り口」であり、「里海」は一つしかない「ゴール」であるということだ。
(引用開始)
<同書211−212ページ>
里山は入り口であり、里海はゴール。このブログでは「流域思想」(山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして考える発想)を提唱しているが、「里海の思想」はこの流域思想(もしくは流域思考)と親和性のある考え方のようだ。読んでいて納得することが多かった。
このブログではまた、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
という対比を掲げ、日本語的発想は自然環境破壊に対して強いはずだと述べてきた(「自然の捉え方」やカテゴリ「言葉について」の各項参照)。環境破壊が進む21世紀の世界を救うのは、日本語的発想というわけだ。この里海の思想も日本語的発想が基になっているという。藻谷氏の解説引用を続けよう。
(引用開始)
この解説の序盤に書いたとおり、「里海」というのは、「人間の暮らしの営みの中で多年の間、多用に利用されていながら、逆にそのことによって自然の循環・再生が保たれ、しかも生物多様性が増しているような海」である。だがこのような発想は、本書に書かれているように、欧米の自然科学者の間に最初は広範な反発を呼んだという。彼らは、「自然に均衡や多様性をもたらすのは自然であって、人間ではない」という、自然を裁定者とした「一神教的」発想に囚われており、「人為も自然の中に均衡や多様性を生むことができる」という「人間も八百万の神の端くれ」というような発想を理解できなかったのだ。しかしそこは自然科学者の集団、客観的に計測され検証された証拠があれば、考えを改めざるを得ない。時を経て、いまや「SATOUMI」は「SATOYAMA」と並んで世界の生態学者の常用句となった。
「人間も自然の中の一部であり、人為も自然の循環の中の一要素と位置付けて評価できる場合がある、だから人間にできる努力をあきらめてはいけない」という、一神教的な発想から言えば革命的な日本発の考え方が、少しずつ生態学の世界を変えていっているのである。
(引用開始)
<同書 222−223ページ>
これからの生態学には日本語的発想が欠かせなくなってくる筈だ。
このブログではさらに、21世紀はモノよりも動きのあるコトを大切に考える「モノコト・シフト時代」であり、これからは経済三層構造、
「コト経済」
a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般
「モノ経済」
a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般
「マネー経済」
a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム
において、特にa領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力と、「コト経済」(a、b両領域)に対する親近感が増すと考えてきた。藻谷氏の解説をさらに引用する。
(引用開始)
『里山資本主義』を学ぶことは、「金融緩和」に代表されるような怪しい「唯一神」への丸投げをやめ、社会の中での再生・循環・均衡の回復に向けて自分にも何かできることはないかと考える画期となる。元祖『資本論』は、「神の見えざる手」の絶対化を押しとどめ、資本主義社会を是正する大きな原動力となったが、「労働者のよる自己決定」を新たな「唯一神」と祭り上げるイデオロギーを生むことにもなって、流血の二○世紀にさらなる状況悪化をもたらした面もあった。しかしこの『里山資本主義』は、何か新しい「唯一神」を掲げるのではなく、八百万の神のささやかな力の結集に信を置くものである。
一つ一つは微力な主体の相互作用だけが、均衡を回復する道筋である。そのことを理解していれば、あなたも微力な存在の一つとして、そのプロセスに恐る恐る関与してよい。まさに、新たな唯一神を掲げ押し付けるのではない、「しなやかな二一世紀の資本論」がここにある。
(引用開始)
<同書 225ページ>
人々の微力な主体の相互作用(コト)の連なりが「しなやかな二一世紀」をつくる。「里海の思想」はそういう未来の可能性を拓く考え方だ。皆さんも是非本書を手に取って里海、里山、流域の可能性に気付いていただきたい。
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