先日新聞に「個性的な言葉」と題した、日本語教師(52歳)の投稿が掲載されていた。
(引用開始)
かつて私は約三年にわたり中国の江南、浙江、広東省にある三つの大学で、日本語や日本文化を教えていました。
どこの大学でも必ず中国人学生に受ける日本語があります。それは、そば屋で客が注文する時の「私はキツネです」「僕はタヌキです」。日本人なら、「私はキツネを注文します」の省略と分かりますが、中国語にはこのような表現方法がないため、日本語は面白いと感じるようです。
一般的に、日本人は文法をあまり重んじないように見て取れます。一方で、人と物が同化するような特有の言語感覚や表現の豊かさは、独自の特色ある国民性を表しています。世界では、よく日本語は曖昧だといわれていますが、かなり情緒的で個性的だとも思うのです。
他者とのコミュニケーションをする上で、一番身近なのが言葉です。私は五十年余り付き合ってきましたが、ことばの世界は広く深く、言葉はとても不思議な存在です。
(引用終了)
<東京新聞 7/6/2015>
複眼主義では、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
という対比を論じている。この「私はキツネ」「僕はタヌキ」という表現方法こそ、Bの日本語的発想の典型例である。何故か。この言い方は、言葉の省略というよりも、そば屋のテーブル(を囲む仲間)という場所・環境を中心に、そこにおける自分の取り分を「キツネ」あるいは「タヌキ」、と捉える発想なのである。中心は、あくまでテーブとそれを囲む仲間だ。
同じことは、接客文化の違いとして捉えることもできる。『新・観光立国論』デービッド・アトキンソン著(東洋経済新報社)に次のような箇所がある。
(引用開始)
また、個人的に驚いたのは、日本のレストランのスタッフには、どの客が何を注文したのか覚えていない人が多いことです。たとえば、5人くらいで店に行くと、料理をテーブルに運んできたスタッフは「○○のお客さま」と注文を読み上げて、客に手を上げさせます。場合によってですが、どうも確認の意味でもないことが多いようです。これは驚きでした。海外の多くでは、テーブルを担当しているスタッフは誰がどの料理を注文したのかを頭に入れて、何も言わずに正しく注文した人の前におくのが基本中の基本ですが、日本ではまったく違うということに驚く外国人は多いのです。
(引用終了)
<同書 118−119ページ>
日本人は環境(テーブルとそれを囲む仲間)中心に考える。料理を運んできたスタッフはどの料理をテーブルのどこに置くか、客はどの料理がどこに置かれるかが問題で、その際、誰が何を注文したかは中心的課題ではない。だから、客の方が手を挙げて料理の位置を示すことに心理的抵抗がない。配膳プロセスにはむしろ積極的に協力しようとする人の方が多いのではないか。Process Technologyとはそういうプロセスへの積極的な協力姿勢・技術を指す。
日本(語)人は何事もまず環境中心に考える。普通の生活においても、個人よりも社会(というよりも世間)中心に発想する。だから人(世間)に迷惑が掛かることを極端に恐れる。上下関係や先輩・後輩関係ばかりに特に目がいく。それが他の言語との際立った違いである。
この問題について、これまでも「議論のための日本語」「議論のための日本語 II」などを書いてきた。併せてお読みいただければ嬉しい。
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