生産と消費との相補性について以前、『社会にとって重要なのは、ある人の「生産」が、別のある人の「消費」となる、というダイナミズムである。「生産」(他人のための行為)と「消費」(自分のための行為)には、必ず相手が存在する。一対多である場合もあれば一対一ということもあるだろうし、「生産」がサービスではなく物(商品)の場合は在庫期間もあるだろうが、他人のための行為にはかならず受け手が想定されるし、自分のための行為にはかならずそれを与えてくれる人が居る。』(「生産と消費について」)と書いたが、現代社会の問題の一つは、多くの場合、生産者と消費者との間が、複雑な流通や長期在庫などによって、分離・断絶していることであろう。
『日本の「食」は安すぎる』(講談社+α新書)の著者山本謙治氏は、『現在の日本ではモノを購入する際には小売店を利用することがほとんどであるため、生産者の顔を見ることがない。だから消費者は、安くなると困る人がいるということを実感できない。いわゆる「生産と消費の断絶」の状態にあるのだ。モノを作る人の顔が見えず、商品だけがそこにある現在では、消費者が安さばかりを求めてしまうのも当然かもしれない。』(同書26ページ)と述べ、「理想的な社会とは、自らが望む生産活動に必要な糧を、消費者が納得して支払った価格で得られる状態であるはずだ。」(同25ページ)と書いておられる。
私は「スモールビジネスの時代」のなかで、「最近、品質や安全の問題が頻発し、高度成長時代を支えた大量生産・輸送・消費システムが軋みをみせている。大量生産を可能にしたのは、遠くから運ばれる安い原材料と大きな組織だが、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった、安定成長時代の産業システムを牽引するのは、フレキシブルで、判断が早く、地域に密着したスモールビジネスなのではないだろうか。」と述べたが、「食」の場合は特に、「生産者と消費者との距離の近さ」が重要だと考える。
以前「食生活の変化と自給率」で引用した「フード・マイレージ」(日本評論社)の著者中田哲也氏は、その本の「あとがき」のなかで、「食の流通は多様化、広域化し、生産者、事業者、消費者はお互いの顔が見えにくくなっている。私たちの食生活は、世界のどこかで何かが起こる度に大きな影響を受け、あるいはマスコミの表面的な情報に簡単に踊らされるような、脆いものとなっている。(中略)現在の私たちの食は、たしかに非常に多くの深刻な問題点を抱えている。しかし、その一方で、今の病んだ社会を持続可能なものへと再生していく役割も、自然循環の制約と恵みの中で営まれる食と農こそが担い得るのではないか。できることから、自分の足元から、地域から。それが社会を変えていくきっかけになると確信している。」(225−226ページ)と書かれている。「生産者と消費者との距離の近さ」は、食品の鮮度保持や流通コスト低減だけではなく、地域社会の活性化にも繋がるのだ。
食に限らず、これまでの高度成長時代を支えた大量生産・輸送・消費システムは、安い労働力、原材料費、流通コストを前提として、モノやサービスの質よりも、その交換効率を優先してきた。安定成長時代は、逆に、効率よりも質が重視されるだろう。そして、この「効率から質への価値転換」は、価値を測定する道具であるところの「通貨」それ自体の見直しを迫ることとなるだろう。「通貨価値」なるものをいったん外して考えれば、ある人の「生産」が別のある人の「消費」であり、ある人の「消費」が別の或る人の「生産」なのだから、社会における「生産」と「消費」の価値総和は、互いに見合っている筈なのである。
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