福田恒存の『私の英国史』が中公文庫から復刻されたので、この春じっくりと読んだ。単行本は1980年に出たとあるから35年ぶりのこと、端正な旧仮名の文章は読みやすく、内容は重厚だが分りやすい。カバー裏表紙の紹介文には、
(引用開始)
ノルマン人征服から、チャールズ一世の処刑(清教徒革命)まで。美徳と悪徳、利己心と虚栄心、愚行と蛮行……、史劇さながらに展開する歴代国王の事績を、公正な眼差しで叙述した、シェイクスピア翻訳者・福田恒存が書きたかった英国史。ジョン・バートン編「空しき王冠」(福田逸・訳)を併録。
解説・浜崎洋介
(引用終了)
とあり、本の帯には<現代日本のために……「反省の鑑(かがみ)」としての英国史>とあった。
ノルマン人征服からプランタジネット朝、テューダー朝からステュアート朝に至る歴史の中で、立憲君主制がどのようにして成立し維持されてきたのか、本の帯にあるように、同じ体制を標榜する日本国との違いについて考えさせられる。反省の鑑は立憲君主制のことだけに限らない。以前「nationとstate」や「ヒト・モノ・カネの複合統治」の項で21世紀の国家(state)のあり方について論じたが、United Kingdomという連邦国家は複合社会であり、その歴史と今を深く知ることは、これからの日本列島の統治そのものを論じる上で大いに参考になる筈だ。同じ島国という類似性もある。本書の「あとがき」から引用したい。
(引用開始)
私は本文の中で、「英国史の基調音」といふ言葉を用ゐたが、それは宗教的には英国国教会といふ鵺的なものを生み、道徳的には愛国心と利己心との妥協によって、個人の自由を確保し、政治的には中央集権的指導力(統治する技術)と民主主義(統治される或は統治させる技術)とを融合させ、心情的には国家主義と国際主義とを両立させる事によつて、ヨーロッパのどの国よりも先に近代国家として出発した事を意味する。随つて「私の英国史」は「英国の為の英国史」ではなく、「現代日本の為の英国史」といふ意味でもある。正直に言つて、私は過去の英国の歴史に対して飽くまで忠実であらうと努めながらも、現代の日本にとつてこれほど格好な反省の鑑はあるまいと思ふ箇処が随所にあり、さう書き添へたい誘惑に駆られる事が屢々であった。福沢諭吉に倣つて新「西洋事情」英国篇の積りだと言つたら、その厚顔無恥を嗤はれるであらうか。
(引用終了)
<同書 367ページより。フリガナ省略>
ご存知のようにこのブログでは「複眼主義」と称して、
A 主格中心−所有原理−男性性−英語的発想
B 環境中心−関係原理−女性性−日本語的発想
という対比を論じているが、政治体制の背景には当然言葉がある。百年戦争(フランスとの戦い)や薔薇戦争(ランカスター家とヨーク家の争い)、英国国教会設立などの詳しい背景を知ることは、英語の来歴を考える上でも重要だ。
読むきっかけを与えてくれた新聞の紹介文も引用しておこう。
(引用開始)
アングロサクソン人定住から百年戦争などをへて、清教徒革命のチャールズ一世処刑まで、歴代国王の盛衰や波乱が史劇のごとく展開する英国史。シェークスピア翻訳の泰斗でもある保守派の論客が、民主主義を標榜する戦後日本にとり<反省の鑑>とすべき点は多いとの思いを込めて執筆。バートン編「空しき王冠」を併録。
(引用終了)
<東京新聞 4/5/2015(フリガナ省略)>
この名著を復刻した中公文庫の編集部と、協力したご子息の福田逸氏に感謝したい。
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