本を初めて読んだときは、全体を掴むことに精一杯で細部にまで目が行き届かない場合が多い。二回目に読むと細部が分かってきて、さらにいろいろと知りたくなる。同じ著者のほかの本や、同じ分野の別の人の本を読み継いで、さらに理解を深める良い機会だ。日を措いて同じ本をまた読むと、これまで見えなかった新しいことが見えてくる。そして初めて読んだときとは違った理解の仕方が生まれる。場合によってはそれまで面白いと思っていた本がつまらなく思えることもある。
繰り返し読書法の良いところは、いずれまた戻って来ることが分かっているから、初回は無理せず、解らないところは飛ばし読みしても構わないことだ。読み進めながら気になるところに鉛筆で薄く傍線を引いておく。二回目は、既に本の全体像は把握しているわけだから、分かりにくかったところを重点的に読み返す。興味の度合いに応じて、濃い傍線、余白への書き込みなどを行いながら内容を記憶していく。そして三回目は新しい気持ちで全体を読む。三回読んでまだ面白いと感じる本は、きっとあなたの枕頭の書としてその後も折に触れて繰り返し読まれる筈だ。
具体的な例で考えてみよう。私にとっての枕頭書の一つが「本当は怖ろしい万葉集」小林惠子著(祥伝社)、「西域から来た皇女 本当は怖ろしい万葉集A」小林惠子著(祥伝社)、「大伴家持の暗号 本当は怖ろしい万葉集完結編」小林惠子著(祥伝社)の三部作である。
私は歴史の専門家ではないが、日本という国がどういう来歴を持っているのか興味を持って勉強している。歴史の記述とは、様々な事暦を一定のストーリーに整合する作業である。事暦は無数にあり、進展は因果性と偶発性とに等しく左右されるから、何が歴史的真実で何が偽りであるかを後世の人間が軽々に決め付けることはできない。特に国の正史といわれる書物は、時の為政者の都合で書かれるから偽りも多いだろう。従って歴史の記述には多くの選択肢があって良いと思う。私が重視するのは、
1. ストーリーに一貫性があり、全体を貫く法則がシンプルであること
2. 多くの出来事が無理なく説明できること
3. 当時の人びとの考え方を深く洞察できていること
の三点である。
小林惠子氏の著作(「興亡古代史」文藝春秋など)の特徴は、内外の幅広い文献に丁寧に当たり推論を積み重ねていること、既成の歴史観から自由であること、視野が列島内に止まらず、常に大陸との関係を重視していることだ。特にこの三部作は、歌に焦点が当てられているので、登場人物が生き生きと描かれている。「集合名詞(collective noun)の罠」でのべたように、何かを成すのは個々人であって、人の集合体が何かをする訳ではない。
額田王の出自、柿本人麻呂と高市皇子、万葉集成立の経緯、大津皇子と山辺皇女、西域と日本、長屋王と渤海勢力、大伴家持の生き方などなど、当時の大陸と列島の姿が眼前に浮かび上がる。勿論個々の修正はあるだろうが、古代の列島が大陸の強い影響下にあり、頻繁に為政者の行き来があったという推論、その事暦が、最古の詩集の中に墓誌のように埋め込まれているという指摘はとても魅力的だ。
初回は無理せず、解らないところは飛ばし読みをしても構わない。万葉集の解読はどうしても万葉仮名の読み下しが出てくる。二回目は分かりづらかったところを重点的に読み返す。氏の他の著作や、同時代について書かれた別の歴史家の著作と読み比べてみる。三回読んで面白いと感じられれば、この三部作は私同様あなたの枕頭書としてその後も繰り返し読まれる筈だ。
並行読書法では、脳の複数の分野が同時期に刺激されることで、ニューロン・ネットワークに思わぬつながりが生まれるわけだが、同じ本を繰り返し読むことは、脳の同分野が異なる時期に刺激されることでそれまでのニューロン・ネットワークの結びつきがより強まるのだろう。本の内容が短期記憶から長期記憶へと移るわけだ。二つの方法、「並行読書法」と「繰り返し読書法」を併用することで、皆さんの読書体験がより実り多いものとなることを期待したい。



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