先日「共生の思想 II」の項で、日本人の自然を大切にする知恵・価値観に期待を寄せる本川氏(『生物多様性』著者)の言葉を引用したが、『唱歌「ふるさと」の生態学』高槻成紀著(ヤマケイ新書)は、この島国の生態学的な実状と、これからの課題を纏めた本だ。副題に「ウサギはなぜいなくなったのか?」とある。本帯の紹介文を引用しよう。
(引用開始)
今こそ見直したい「ウサギ追いしかの山」の世界。里山の変容を、唱歌「ふるさと」の歌詞から読み解く。(帯表紙)
世代を超えて歌われる唱歌「ふるさと」。ここで歌われたウサギやフナは、なぜいなくなってしまったのか?聞き慣れた歌詞から、昔日の里山を生態学の視点で読み解き、現代との比較を通じて失われた日本の自然と文化を見直す。(帯裏表紙)
(引用終了)
本の構成は、
一章 「故郷」を読み解く
二章 ウサギ追いし――里山の変化
三章 小ブナ釣りし――水の変化
四章 山は青き――森林の変化
五章 いかにいます父母――社会の変化
六章 東日本大震災と故郷
七章 「故郷」という歌
八章 「故郷」から考える現代日本社会
となっている。著者は動物生態学・保全生態学者。生態学(環境の変化が動物や植物にどのような影響を与えたかを研究する学問)のうちでも、二十世紀後半の自然破壊のすさまじさに対する危機感から生まれたのが保全生態学だ。池内紀氏の新聞書評を一部引用したい。
(引用開始)
なぜウサギがいなくなったのか。すぐに環境汚染や狩猟を原因と考えがちだが、そうではなく、山に茅場がなくなったのが大きいという。茅、つまりススキやヨシのしげる平原。屋根を葺く茅、家畜の飼料、荷造りのクッション。いろいろ用途があり、茅場を取り込むかたちで里山が成り立っていた。用途を失って放置されると、とたんに木が侵入してススキは消えていく。ウサギには安住の場がなくなった。
おおかたの日本人が「心のふるさと」というとき、思い浮かべる風景画ある。茅葺の農家、よく耕された田や畑、まわりの屋敷林、背後の山。農地は作物、屋敷林は材木、山は炭火焼き。調和のとれた美しい景観は、暮らしのシステムが安定していたなかで維持されてきた。茅場の消滅一つからも、さまざまなものが見えてくる。近年の山里ではイノシシの被害がしきりに言われる。私はイノシシのような大型の動物がなぜ里に出没するのか、いぶかしく思っていたが、生態学的にはウサギに代わり、イノシシに「もってこいの条件」がととのっているのである。
(引用終了)
<毎日新聞 4/26/2015(フリガナ省略)>
里山についてはこれまで、「里山ビジネス」や「内と外 II」、「里山システムと国づくり」などの項でその大切さを書いてきた。この本はいわば生態学からみた里山保全論といえるだろう。里山経済を復活させる為にはこの面からの考察も欠かせない。これからも仕組みをいろいろと勉強したいと思う。
さて高槻氏は、自然の捉え方に関する日本人とヨーロッパ人との違いについて、次のように書いておられる。
(引用開始)
「故郷」の時代と現代との比較をする上で、自然のとらえ方の違いを考えている。そのためには、日本人の自然観とヨーロッパ人の自然観を比較することが役立つように思われる。
都市住民が主体となった現代日本では自然はすばらしいものであるというとらえ方が主流である。そしてそのすばらしい自然は保護すべきだと考える。ただしそれは実際に自然に接してすばらしいと感じ、自然は守るべきだと実感してのことであるというよりは、テレビ等を通じての追体験であることが多い。それは基本的にヨーロッパの自然観の翻訳である。ヨーロッパにおいては人間だけが神に近い存在であり、だから人間は世界を支配して責任をもって管理すべきだというキリスト教的な世界観がある。(中略)
自然がひ弱であり、丁寧に管理しなければ、原生的な自然が失われたり、生産性がそこなわれたりするヨーロッパでは、人が優位にいるのだから自然を支配するのがよい結果をもたらすという経験があったであろう。しかし日本のように生物多様性が驚くほど高い土地では、自然は守るというようなものではまったくなく、夏の暑さも冬の寒さも人を攻めるという感じがある。その上、地震もあれば、洪水もある。守ってほしいのはむしろ人のほうであった。そういう自然とおりあいをつけるためには、自然を支配して管理下に置くという姿勢はまったくふさわしくない。攻めるものはかわし、逃げることでことなきを得るほうが、よほど合理的であった。恐ろしい目に遭わせないでください、農作物が大水で台無しにならないようにしてください――そのように祈りながらも、リアリストである農民や漁民は、祈りだけでものごとが解決すると考えるほど愚かでも楽天的でもなかった。自然をよく観察し、どのような土地に洪水が起きるか、どのような雲の動きのあとに嵐が来るかといったことをよく知識として蓄え、どのようにすべきかを知恵として引き継いできた。自然と向かい合って対立するのではなく、むしろ自分を自然の中に位置づけ、小さな存在のひとつと感じて来た。
(引用終了)
<同書 189−202ページ>
ヨーロッパ人が自然を資源として管理しようとしてきたのに対し、日本人は自然環境に寄り添い、里山を作り、生活しやすいようにそれを手なずけてきた。これは複眼主義の、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
という対比と整合する。生態学の知識と同時に、環境の捉え方に関するこの彼我(ひが)の違いについてもよく知っておきたい。複眼主義ではAとBとのバランスを大切に考える。
最近の日本人が伝統的な里山精神を忘れかけていることに対して、高槻氏は、
(引用開始)
そのこと(伝統的な里山精神)がここに来て、危うくなり、そうなったときの変容の速度があまりに速く、崩壊という言葉がふさわしいかのごときである。その原因は多様であり、またつきとめるのも容易ではない。だが、私が本書で考えたことではっきり言えることがある。それは、里山を構築した伝統の底に流れる、自然と対峙するのではなく、自然に寄り添い、生き物を畏敬せよという先人の精神を正しく継承すべきであるということである。日本人の自然観は、少なくとも二〇〇〇年の歴史の中で洗練され、不適切なものは淘汰されてきたものである。それは、物やエネルギーを粗末にするなと正しく教えて来た。それを旧弊として捨て去ってきたこれまでの愚かさを見直す、それが我々に課せられた最低限のつとめであるように思われる。
私は「故郷」の歌われた動植物や山川について考え、その意味を読み取ろうとした。そしてその底流に見いだしたのは、すばらしい自然の中で暮らしてきた我々の祖先の生きる知の深さに気付くべきだということであった。
(引用終了)
<同書 205−206ページ(括弧内は引用者の註)>
と最後に書いておられる。日本語的発想は「環境中心」なのだが、最近の日本人は、自然ではなく「都市環境中心」の発想になってしまっているのである。
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