複眼主義ではまず人と世界とを「個人」と「集団」とに分ける。人は「個人」であり世界は「集団」である。さらにそれぞれを、
「個人」:「脳の働き」=「公」と、「身体の働き」=「私」
「集団」:「都市の働き」=「公」と、「自然の働き」=「私」
とに二分する。ここまでは時間論以前の話だ。

人と世界は円を斜め上から見たところとして表現。世界は斜線によって「都市の働き」と「自然の働き」とに分けられる。人は斜線によって「脳の働き」と「身体の働き」とに分けられる。
個人の「脳の働き」と「身体の働き」については、「単行本読書法(2014)」での説明を繰り返しておこう。人の神経は、中枢神経系と抹消神経系からなり、中枢神経系には脳(大脳/脳幹/小脳)と脊髄があり、末梢神経系には体性神経(感覚神経/運動神経)と自律神経(交感神経/副交感神経)とがある。複眼主義で「脳の働き」と呼んでいるのは大脳の内の進化的に新しい大脳新皮質の働きを指し、「身体の働き」と呼んでいるのは、大脳の大脳旧皮質、脳幹の働きを指している。後者は小脳、脊髄および末梢神経全体と強く結ばれているから総じて「身体の働き」と言っているわけだ。人は「脳の働き」と「身体の働き」をバランスさせながら生きている。図では「身体の働き」に身体そのものも含む。
集団の「都市の働き」と「自然の働き」は、個人の「脳の働き」と「身体の働き」に由来・対応する。個人の脳が集団に働きかけることによって作り出されるのが「都市」、身体そのものの母体となっているのが「自然」である。都市とは、脳の働きが身体と自然の力を元につくり出す人口のもの一切を指す。言葉、法律、国、会社、イベント、家、街、コンピュータ、TV、車などなど。自然とは、人工のもの以外を指す。
ここまででもう想像が付くかもしれないが、複眼主義では以上に沿って、時間を四つに分けて考える。
「脳の働き」=現在進行形(t = 0)
「身体の働き」=寿命(t = life)
「都市の働き」=金利(t = interest)
「自然の働き」=無限大(t = ∞)
という具合だ。

脳の働きは常に現在進行形。今あなたはこの端末画面を見ているけれど、画面の後ろにある空間、乗り物や街、会社や家庭、そして世界全体を一挙に把握している筈だ。あなたの頭の中にはあなたがこれまで体験してきた世界の全てが同時にある。各人の脳は固有の現在進行形の時間を持っている。
身体は寿命によって制御される。脳も身体の内だから、身体の時間が終われば脳の時間も終わる。寿命は身体の大きさに比例するというのが本川達雄氏の『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書)である。この本については以前「集団の時間」の項でも紹介したことがある。
多くの人の脳が作り出す都市の機能を制御する時間は、集団内で共通のものにしておく必要がある。今の都市の時間は(歴史的な力関係で)概ねユダヤ・キリスト教でいうところの「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」を基準にしてある。その流通価値は、集団内の合意事項として効率(金利)によって判断することになっている。勿論世の中には金利ゼロという集団(社会)があってもよい。
自然の時間は今の人智では計り知れない。だから宗教や科学の出番がある。宗教や科学が考える時間にはいろいろある。単純一方向型、インフレーション型、多元型、循環型などなど。複眼主義ではこれを無限大と置いている。ユダヤ・キリスト教徒は彼らの「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」という単純一方向型の時間概念を自分達の「都市」にまず持ち込んだわけだ。それが今のところ世界基準となっている。
無限大という意味はなんでもありということ。生物学のスケーリングや気象学、熱力学、流体力学などを勉強していると、ET = kWという、空間(W)サイズは、エネルギー(E)と固有時間(T)によって決まってくる(kは定数)という法則が一番しっくり来る。おそらく世界はET = kWの入れ子構造で成り立っていると思うのだが、これはまだ仮説前段階の域を出ない。身体の時間が終われば脳の時間も終わるように、自然の時間が終われば都市の時間も勿論終わる。
こうした四つの時間概念、
「脳の働き」=現在進行形(t = 0)
「身体の働き」=寿命(t = life)
「都市の働き」=金利(t = interest)
「自然の働き」=無限大(t = ∞)
をベースにして私は生きている。一般の人と違うかもしれないが都市生活上なんの不便もない。会社(SMR)のミッションである「知の拡大」のために、日々、脳の現在進行形の時間を豊にすることを心掛けている。人との約束を破ることはない。各種工学の成果は無理のない範囲で利用する。身体健康上は寿命を全うしようというだけのことで「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」を信じて若さに嫉妬したり老化に抵抗したりすることもない。
モノコト・シフトの時代、皆さんも“コト”が起る時間について、さまざま想いを巡らせてみてはいかがだろう。宗教上の理由以外で「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」である必然性が見つかったらそのときは是非お知らせいただきたい。その際工学(応用科学)と科学(science)との違いを見誤らないように。
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