生物学者福岡伸一氏の『芸術と科学のあいだ』という新聞連載コラムを毎回楽しく読んでいる。その第44回に「無くしたピースの請求法に感心」と題した記事があった。
(引用開始)
私の学生時代の知人にジグソーパズルの愛好家がいた。大判のパズルを―それはたぶん数百とか数千ものピースからなっていたと思われるが―飽きもせず長い時間をかけて完成させる。彼の言い分がふるっていた。「あと一個、というところまで作っておいて、最後のピースは彼女に入れさせてあげるんだ」。当時の彼に、彼女が本当にいたとしても、彼女はそのプレゼントをどれほど喜んだことだろう。今となってはよくわからない。
ところで、こんなジグソーパズルのファンにとって困ったことが起こりうる。一生懸命作り上げたパズル、いよいよ完成という段になって、ピースがひとつ足りない。そもそもピースは小さい。どんな隙間にでも入り込みうる。部屋中を必死に探しまわってもどうしても見つからない…このような悪夢のような事態は実際、しばしば発生することのようだ。
その証拠に、ジグソーパズルメーカー、やのまん(東京・台東)のホームページにこんなサービスの告知を見つけた。
「弊社では無料で紛失したピースを提供させて頂いております」
でも、いったいどのようにして無くしてしまったものを相手に知らせることができるのか。次の一文がふるっている。
「請求ピースのまわりを囲む8つのピースをはずして、崩れないようラップ等でくるむ」(ラップ等で、というところがまたいい)=写真は同社ホームページの一部
私はこれを読んで心底感心した。生物学の根幹を統べる原理がここにあますところなく表現されている。生命を構成する要素(ピース)は単独で存在しているのではない。それを取り囲む要素との関係性の中で初めて存在しうる。状況が存在を規定する。自分のなかに自分はいない。自分の外で自分が決まる。相補性である。ラップに包まれた8つのピースの中央におさまった真新しいピースがそっと返送されてきたら…このときこそ彼女は本当に至福を感じるだろう。
(引用終了)
<日経新聞 12/14/2014、写真は省略>
この「生命を構成する要素(ピース)は単独で存在しているのではない。それを取り囲む要素との関係性の中で初めて存在しうる。状況が存在を規定する」という生物学的認識論を、社会と個人の関係にまで敷衍したのが、去年私が執筆した電子書籍『あなたの中にあなたはいない』という小説である。
勿論、人はパズルのピースとは違い「知覚」を持っている。その意味で、人には自分のなかに(知覚する)自分がいるわけだが、社会と個人との関係において重要なのは、そういう自分ではなく、「至高的存在」としての他者、恋人だったり友達だったり、両親だったり兄弟だったり、恩師だったりする相手=「あなた」を大切に思う気持ちであり、それが自分の存在を規定しているのではないか、というのがこの小説のテーマだ。
西洋近代が用意した民主政治・自由経済という制度は、「個人」の自立を促した。その過程で、社会の掟や繋がりが古いものとして捨て去られ、機会の平等と弱肉強食が肯定された。複眼主義の、
A 主格中心−所有原理−男性性−英語的発想
B 環境中心−関係原理−女性性−日本語的発想
という対比でみれば、世界全体がAの側に引き寄せられていったということだ。複眼主義的には、Aは都市の原理、Bは自然の原理でもあり、社会としては常に両者のバランスが取れていなければならない。
西洋近代は、陋習を否定する一方、自然を慈しみ、過去とのつながりも大切にしなければならないとする、カウンター・バランスも用意していた(ウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動など)。しかし、「二つの透明性と西欧近代文明」の項などで述べたように、20世紀、そのカウンター・バランスの方は、アメリカの大量生産・輸送・消費システムに凌駕され、力を失ってしまった。
21世紀に至り、Aの側に偏った社会が、実は、地球環境の破壊と結果の不平等という、当初の期待とは真逆の惨状を齎すことが見えてきた。とくに地球環境破壊は人類(だけでなく全ての生物)の存在そのものを脅かす。前回「回転と中心軸のトポロジー」の項でも触れた“モノからコトへ”のパラダイムシフト(略してモノコト・シフト)とは、A偏重社会への反動として生まれた、Bの側への感心の高まりである。
その意味で、「自分のなかに自分はいない。自分の外で自分が決まる」という原理、「自分は環境によって生かされている」という気付きは、これからますます輝いてくると思われる。私が『あなたの中にあなたはいない』(とそれに先行する『僕のH2O』)という小説で訴えたかったのはこのことだ。
どんな話しなのか興味のある方は、『茂木賛の世界』から目次を辿ってアクセスしてみて戴きたい。参考までに、小説の<あとがき>を転載しておこう。
(引用開始)
以前「KURA(くら)」という信州の情報誌を読んでいたら、ガラス造形作家松原幸子さんの「Book of the sky」という作品が目に留まった(2011年7月号)。素敵な装丁本のなかに、白い雲が浮かぶガラスが納められでいる。
記事によってその年の5月、安曇野のギャラリー・シュタイネで作品が展示されたことを知り、その冬、私はギャラリーを訪れた。幸い幾つか作られた「Book of the sky」のうちのひとつがまだギャラリーに残っていたので、さっそく購入、いま私のhome/officeに飾ってある。この小説のインスピレーションは、その作品と、ギャラリー・シュタイネのご主人との四方山話から生まれた。
小説のテーマの方は、2007年以来掲載を続けているブログ「夜間飛行」の「“わたし”とはなにか I~III」(2011年7月)や「流域思想 I~II」(2010年5月)などの記事による。
仕事などで幾度も訪れた松本という街、“わたし”の存在論や、流域の三層構造(奥山・里山・家の奥)、「Book of the sky」というガラス作品、安曇野のギャラリーの佇まいなどが脳裏で融合し、いわば即興的にこの短編が出来上がった。
茂木賛
7/21/2014
(引用終了)
尚、福岡伸一氏の著書については、これまで「動的平衡とは何か」の項などでも紹介してきた。併せてお読みいただけば嬉しい。
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