「文庫読書法(2014)」の項で、日本人は抽象的な外来思想を具象的な環境に落とし込み土着信仰に習合させてきたと書き、前回「郷愁的美学」の項で、日本の男性性思考(螺旋運動)は場所に牽引されて抽象的な高みに飛翔し続けないと書いた。これは複眼主義の、
A 主格中心−所有原理−男性性−英語的発想
B 環境中心−関係原理−女性性−日本語的発想
という対比において、日本の男性性が日本語的発想に引き寄せられ、Bの側に偏っていることを指し示している。
場所中心の日本人は何にでも入りたがる。風呂に入り、学校に入り、会社に入る。主格中心の西洋人は風呂をtakeし、学校でlearnし、会社でworkする。日本語では、地図上の自分の位置は「現在地」という矢印で示すが、英語では「you are here」という矢印で示す。これらの事例は以前「いつのまにかそうなっている」「現在地にあなたはいない」などの項で取り上げた。
日本文化のバランスがBの側に偏っていることは、人々がその場の空気に流されやすく、個人の自立を前提とする近代民主政治制度下において財欲と名声欲(greed)に騙されやすかったり、官僚(buraucracy)の跋扈を許したり、弁証法が得意とする発見・発明にあまり成果がない等の欠点を齎す一方、男性性思考が場所に留まることで、日本各地でさまざまな場所・環境に応じた文化が育ち、それが内への求心性を保ったまま長く(江戸時代300年も)維持されるという良さも齎したといえるだろう。勿論、西洋でも場所・環境に応じて多様な文化が生まれたが、それぞれの場所における内への求心性よりも外への遠心性が勝ったことで、一神教と相俟って帝国が出現し、やがて植民地主義が始まったと思われる。
これをトポロジカル(位相的)に見ると、西洋の螺旋運動が、おとぎ話の「ジャックと豆の木」に出てくる豆の木のように、どんどん高みに飛翔し続けやがて雲を劈いて天の高みに達するのに対して、日本の螺旋運動は、「鳴門の渦潮」のように、同時多発的に複数の場所で起るといえる。螺旋の周期性は離散的(デジタル的)、迷宮の内部は連続的(アナログ的)だ。これは「デジタル回路とアナログ回路」の項で述べた対比とも整合する。
A 男性性−デジタル回路思考主体−螺旋的な遠心性
B 女性性−アナログ回路思考主体−迷宮的な求心性
「D/A変換とA/D変換」の観点から西洋と日本の男性性思考の違い見れば、西洋はプラトンとアリストテレス以来、弁証法を通して豆の木を登るようにまっすぐ上昇しながら迷宮を巨大化してきたのに対し、日本は、反転法を通して木々に絡まる蔦が横へ横へと広がり、そこ此処に迷宮の花を咲かせてきたといえる。明治以降、西洋の猿真似で豆の木もどきを天に伸ばそうとしたが、その贋物の木は途中で見事に折れてしまったことは記憶に新しい。
21世紀に入って、豆の木と巨大な迷宮はグローバリズムに形を変えて地球を覆おうとしている。しかし一方で、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)が始まり、西洋においても、豆の木から下りる人々が増えてきた。モノコト・シフトとは、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。
世界各地で、地域社会を見直しスロー・フード、スロー・ライフを提唱する人々が増えてきた。だからこそ、そこ此処に迷宮の花を咲かせてきた日本の出番の筈なのだが、戦後もアメリカから借りた高度成長という豆の木の枝を登り続けてきた日本は、各地に小銀座や小京都などという「迷宮もどき」を作ってきたのだった。これからは、地域文化を見直して本当の迷宮を探そうではないか。
この記事へのコメント
コメントを書く