先日来「集合名詞(collective noun)の罠」と「ウェブ新時代」とで触れた「アフォーダンス」について、もう少し(私の理解している範囲で)説明しておいた方が良いかもしれない。
アフォーダンス理論では、我々の住むこの世界は、古典幾何学でいうような、直線や平面、立体でできているのではなくて、ミーディアム(空気や水などの媒体物質)とサブスタンス(土や木などの個体的物質)、そしてその二つが出会うところのサーフェス(表面)から出来ているとされる。そして我々は、自らの知覚システム(基礎的定位、聴覚、触覚、味覚・嗅覚、視覚の五つ)によって、運動を通してこの世界を日々発見する。ジェームズ・ギブソン(1904-1979)というアメリカの学者が主宰した理論で、心理学やリハビリ医療、さらにはアートや建築の目指すところと親和性がある。
この論理の重要な点は少なくとも三つある。一つは、常に思考や行動の枠組みから「自分」というものを外さないということ。私は「集合名詞(collective noun)の罠」で、行為主体として自己の重要性を指摘し、自己言及性に富んだアフォーダンスとの親近性に触れた。
二つ目は、環境と知覚とが、運動を通して表裏一体とされる点である。私の「生産と消費論」では、生産と消費はコインの裏表のようなものなのだが、それは、(アフォーダンス理論で)環境と知覚とが表裏一体とされるのと同じ構造のように思われる。「集合名詞(collective noun)の罠」では、これを「生産と消費との相補性」と呼んだ。
表裏一体ということは、お互いの交換価値が等しいということである。私はこの価値等価性を「通貨とは異なる価値基準の鼎立」として、さらに展開・深化できないものかと考えている。これまでの経済理論では、生産と消費とは別々の場面で、それぞれ異なった動機で行われ、その価値は通貨という客観的な価値基準で決まるとされている。このようなアフォーダンス理論の経済学への適用は、まだあまりなされていないのではないだろうか。
三嶋博之早稲田大学教授も、私へのご返事の中で、「経済学的な生産と消費に関してアフォーダンス理論と関連づけて議論されたものは、私自身は心理学の領域に身をおいていることもあって情報が制限されているせいかもしれませんが、存じておりません。(中略)直感的なものですが、貨幣という媒介物を経ずに、生産と消費の双対性を議論する方法は、アフォーダンス理論の直接知覚論と構造的に似ていると思います。」とお書きになっている。
さて、アフォーダンス理論の重要な点の三つ目は、「知覚システム」には終わりがないということだ。どういうことかというと、我々は、世界の何処で何をしていようが、常に世界全体を(一挙に)把握しているということである。知覚システムは常に環境からの情報をそれまでの情報に重ね合わせて修正を加え続ける。たとえば、今あなたはPCの画面を覗いているが、画面の後ろにある壁、部屋全体、家や街、そして世界全体を(一挙に)把握している筈だ。あなたの頭の中にはあなたがこれまで体験してきた世界の全てが同時にある。アフォーダンスではこれを「異所同時性」と呼ぶ。つまり、脳は常に「現在進行形」なのだ。とすると、果たしてこの世界に客観的な時間は本当に流れているのかどうか。「ウェブ新時代」で触れたのはこのことだ。
私は、古典物理学や数学が、いつも自己を外において理論を作り上げることに飽き足らなく感じていたので、自己言及性に溢れたこのアフォーダンス理論に魅せられている。尚、このテーマを小説の形で追求したのが「僕のH2O」という電子書籍(315円)だ。このサイトからもアクセスできるから是非ダウンロードして読んでみて欲しい。
初めてアフォーダンス理論に触れる方は、「アフォーダンス―新しい認知の理論」佐々木正人著(岩波書店)や、前述した三嶋博之さんの「エコロジカル・マインド」(日本放送出版協会)などが格好の入門書になっている。
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